ビーズうさぎのハナちゃんです!!

日々の生活、山登りや釣り、ドライブなどをアップします。ここの所、巨樹めぐりがメインですが!(汗)

群馬県前橋市、西大室「大室古墳群・後二子古墳」です!!

2024-12-09 20:33:23 | 遺跡・史跡
 「大室古墳群・中二子古墳」に続いて「大室古墳群・後二子古墳」です

 中二子古墳の北西側に位置します、北側の駐車場側から近付きます

 公園案内図です

 北西側に「史蹟 後二子古墳並小古墳」の標柱です

 史跡 後二子古墳(うしろふたごこふん) 昭和2年(1927)4月8日指定
   「埋葬の 儀式を偲ぶ 後二子」
 前・中二子古墳より小さい前方後円墳です。
 墳丘から人・馬・家などの埴輪が出土しています。
 円筒埴輪列の中には親子猿の付いたものもあります。
 造られたのは6世紀後半とみられます。

 北西側から前方部です

 後円部です

  ~巧みな石室造り~ 国指定史跡 後二子古墳
 後二子古墳の石室も前二子古墳と同様に明治11年に開けられました。
 今回の調査によって築造方法にいくつかの工夫がなされていることがわかりました。
 地中を掘って石室を低く造ることで墳丘の盛土を節約しています。
 また石室が低いために地面を掘った通路により出入りが行われました。
 前庭部には、儀式に使われた煮炊きの跡や土器がまとまって出土した様子が復元されています。
 石室は南に開きますが、古墳は北側から見た方が大きく立派に見えます。
 円筒埴輪も、石室の前に復元されているように南側は小さな埴輪が間隔をあけて使われていましたが、北側には大きな埴輪が設置されていました。
 また、円筒埴輪に「親子猿」や「犬」の小像が付けられていました。
 形象埴輪のうち馬形埴輪は、大阪府四天王寺宝物館にある「人が乗る馬形埴輪」と同じ制作者の埴輪であることがわかりました。

 後二子古墳の北側周堀の中提を東へ進み、後円部を見ました

 前方部です

 東側から二段築成の後円部です

 南東側に回り込みました

 後円部南側に石室の入り口です

 説明版です
   史跡 後二子古墳
     横穴式石室
 〇石室の特徴
 死者を葬る玄室を広くした両袖型石室で、大きい石を使っているところに特徴があります。
 玄室は間仕切石で二つに分けられ、奥には遺骸とともに装身具・大刀など、手前には武具・馬具・須恵器が置かれました。
 この石室は墳丘の基壇面を掘り下げて造られ、入口までは基壇面を堀くぼめた墓道がついています。
  副葬品
 ○武具ーーー大刀2振・大刀金具2・小刀2振・鉄鏃若干
 ○装身具ーー金環11個
 ○馬具ーーー轡片
 ○須恵器ーー高杯・提瓶
  石室の比較
 ○石室の長さ、石の大きさ、天井の高さを前二子古墳の石室と比較しましょう。
 後二子古墳ーー6世紀後半ーー石室全長約9.50m、幅2.7m、高さ2.2m
 前二子古墳ーー6世紀初めーー石室全長13.89m、
  円筒埴輪列
 ○墓道両側の埴輪列に違いがあるのはなぜでしょうか。
 墓道西側ーー3・4条突帯まじりの2条突帯埴輪列。
 墓道の右側から並べはじめた大型埴輪が足りなくなったりこわれたりしたため、小型円墳用の小さな埴輪が補充されたのでしょうか。
 墓道東側ーー4条突帯の大型埴輪列
 見晴らしの良い東側から北側にかけて、大型の埴輪を配置することにより、古墳をより壮大にみせようとしたのでしょうか。
  墓前のまつり
 ○奥に見えるのは、石室の入り口前で行われた儀式に使われた土器の一群です。
 土器の特徴からこうした儀式が何回か行われたと考えられます。
 葬られる死者と最後の飲食を共にする儀式が行われたのでしょうか。
 ・土器:土師器(甕・鉢・杯)
    :須恵器(高杯・𤭯(はそう))
 ・鉄器等(小刀・鉄滓(てつさい))
 ・焼土 (火を焚いたあと)
 ○出土した土器(土師器)を特徴から古い順に色分けしました。
 6世紀後半から7世紀前半にかけての土器が見られます。

 東側の大型埴輪列です

 西側の小形の埴輪列です

 石室です

 周堀南側中央から後円部です

 前方部です

 堀底から西側です

 墳丘に上がってみましょう

 前方部です

 後円部です

 後円部頂上から前方部を見ました

 前方部から後円部を見ました

 戻って周堀の南西側から

 西側から前方部と堀を見通しました

 直ぐ右手(西側)の、「小二子古墳」を見てみましょう
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群馬県前橋市、西大室町「大室古墳群・全体模型」です!!

2024-12-09 06:31:38 | 遺跡・史跡
 後二子古墳の南側の広場に古墳の「全体模型」があります

 南側から

 説明です
   大室古墳群
 6世紀頃、赤城南面を代表する古墳が同じ台地の上に並んで造られました。また、すぐ東からは堀と柵で囲まれた豪族の屋敷跡(梅木遺跡)も見つかっています。
 古墳の大きさ・高さ・堀の様子などから前二子古墳から中二子古墳の頃が最も栄えたとみられます。雄大な赤城山を背にくりひろげられた古代人の営みにおもいをはせてみませんか。
 *南から造られた古墳
 赤城南面のゆるやかな台地と河川によって削られた低い谷地が入り組んでいます。
 大形の前方後円墳は西側の台地の上に同じ向きに南から順に造られました。
 ☐生活の場:集落
 台地上には6世紀の集落もあり、発見された35軒ほどの住居跡の中には一辺が10mをこえるものもあります。
 ☐生活の場:水田地域
 東を流れる桂川沿いや南に開けた低い土地では、水田が作られていました。

 東側から

 説明です
   梅木遺跡(5世紀後半から6世紀初め)
 豪族の屋敷跡。一辺65mほどの方形部分の周囲を柵でかこみ、その外側を幅5m、深さ1mほどの堀がめぐります。
 柵列の様子と張り出しがあることから西側にが入口と見られます。屋敷内部は、桂川の氾濫で削られていましたが、日本で最初に発見された三ツ寺Ⅰ遺跡とよく似たつくりです。時期的に、前二子古墳との関係が考えられます。
 △浅間山・榛名山
 西方にある浅間山や榛名山は、今までに大噴火をくり返してきました。
 その時に積もった火山灰との関係で、古墳が造られた時期を知ることができます。
 前二子古墳や中二子古墳の下層から6世紀初頭の榛名山の火山灰層が見つかったことから、古墳が6世紀初頭以降に造られたことがわかります。
 *三ツ寺Ⅰ遺跡推定復元模型(かみつけの里博物館提供)
 群馬町(現高崎市)にある5世紀後半の豪族の屋敷跡。
 内部は、「まつりごと」を行う部分と「くらし」の部分に分かれていたと推定されます。

 北側の説明です
   県内有数の古墳群
 大室の古墳は、6世紀代の三つの大前方後円墳と二つの小前方後円墳、ほかに5基の円墳からなる県内有数の古墳群です。
 これらの古墳は、M-2号墳が竪穴式の小石室のほかは横穴式石室をもちます。

 西側の説明です
 △多田山丘陵
 大室古墳群東方の多田山丘陵には、かつて30基ほどの古墳がありました。
 家形埴輪で有名な赤堀茶臼山古墳(5世紀中頃)や唐三彩の枕が出土した多田山12号墳(7世紀後半)などがあります。
 ☐のちにできた五料沼
 五料沼は、江戸時代に堤を築いてつくられました。
 古墳時代は、北から細い流れが入る谷地でした。
 沼の中からも住居跡が見つかっています。
 △石の山
 古墳の周辺には、赤城山の噴火のなごりの小山がいくつかあります。
 古墳群の北西の山には、古墳の石の掘り取り跡があります。

 公園案内図です

 では、埼玉に帰ることにしましょう


 
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