ビーズうさぎのハナちゃんです!!

日々の生活、山登りや釣り、ドライブなどをアップします。ここの所、巨樹めぐりがメインですが!(汗)

新潟県胎内市、下荒沢お不動様の大杉です!!

2017-09-16 02:31:06 | 巨樹・大木
胎内市との境近くから西へ入ります

約3km進むと、お不動様の前に出ます

境内入口前の道路が広く成っていますので

道路脇に車を止めさせていただきました

神社の入り口脇に大杉が立っています

黒川村天然紀念物 お不動様の大杉の標柱です

境内へ上がりましょう

不動堂です

大聖不動明王の額が懸ります

お堂の奥側両隅に仏像が二体づつ飾られています

お堂前から見上げました、目通り幹周り5,0m巨木です


下の道路に戻って見上げました

では、次へ行きましょう
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新潟県胎内市、明神社「鼓岡の大杉」です!!

2017-09-15 05:42:08 | 巨樹・大木
鼓岡地区は、胎内市役所の東南東約6kmのところ

国道7号線から県道53号線で胎内川右岸を進みます

胎内川橋を渡って鼓岡小学校を過ぎた先を西に入ると

丘の上に神明社が有ります

入り口鳥居前に車を置かせていただきました

参道に沿って杉の大木が並んでいます

鳥居を潜って参道を進みましょう

赤鳥居です
.
石段は続きます

参道の大杉です

社殿が見えて来ました


もうすぐ境内です、目的の大杉が見えてきました

大杉です

説明版です
   鼓岡の大杉
     神明社境内にそびえる「鼓岡の大杉」は、鼓岡鎮守の森の杉の中で一番巨大で
    目通り周り5,9m、高さ30mを測ります。樹齢は推定で500年といわれ、
    根元から4,7mのところで、落雷により二本に裂けて生育し、荘厳な雰囲気を
    かもしだしています。これほどの大杉が鎮守の森として今に残っているのはとて
    も貴重といえます。
        昭和53年11月6日  黒川村指定「天然記念物」
        平成17年9月1日   胎内市指定「天然記念物」
                            胎内市教育委員会

大杉ですが、幹の傷みが進んでいます

拝殿です

乙社殿の額が掛かります

本殿です

境内脇から

拝殿脇から

では、次へいきましょう
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新潟県新発田市、満慶杉です!!

2017-09-14 06:20:59 | 巨樹・大木
満慶杉は、新発田市役所の東北東約9kmところ

国道7号線、国道290号線と菅谷集落を過ぎて

坂井川の左岸に進んで間もなく東へ農道を進みます

菅谷不動尊の東約2kmのところです

道路の右側一段高い所に大きな杉の木が見えます

道路脇に車を止めさせて頂きました

西側から見ました

根元から満慶杉です

指定保存樹木標柱です、一本杉又は満慶杉と成っています

説明版ですが、消えかかっています
    保存樹木
    樹種  杉 一本
    推定樹齢  300年
    指定番号  24号
    指定年月日 昭和58年12月6日
     新発田市長
      一本杉
    地元民から親しまれている
    道標的存在
      は不明
--―読めませんね~

東側から

東側に離れてみました

では、次へ行きましょう
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新潟県新発田市、菅谷不動尊の大杉です!!

2017-09-13 02:30:09 | 巨樹・大木
菅谷不動尊は、新発田市役所の北東約8kmのところ

国道7号線が加治川を渡ったところを東へ国道290号線を進みます

坂井川右岸を道なりに進むと菅谷集落です

集落の中のみちを進むと菅谷不動尊の前にでます

集落の中の道を進んで駐車場に入ります


菅谷不動尊駐車場入口です

北越之霊場 菅谷不動尊です

境内案内板です

参道を進みましょう

手水舎です

向かい側には赤松の大木です

菅谷寺縁起の石碑です
   菅谷寺縁起
     菅谷寺は、今を距てること800年前,鎌倉時代、源頼朝の叔父君護念上人の
    創建されたものであります。
     本尊不動明王は約3000年前、印度のビシュカツマの御作で、栴檀の香木に
    真心こめて刻まれ祀られること1460余年、その後印度から支那を経て更に、
    傳教大師によって、我国に請来された所謂三國傳来の尊い御像であります。
     以来比叡山無動寺に安置されること350年、當時比叡山に在って専心佛道修
    業中の護念上人が故あって、日頃最も深く尊信帰依し奉ったこの御尊像の御頭だ
    けを笈に納めて廻國修業の後當菅谷の里に至った際、たまたま不思議な霊感によ
    って、ここを結縁の地と感じ、一字を建て、御本尊を安置し奉ったのに始まりま
    す。
     其の後、雷火の為、伽藍が悉く焼け失せた際にも、この御本尊のみは、梂傷だ
    も負わせられず、𠑊然としてみたらしの中に在しましたと言傳えられ、日本三不
    動の一つとして、所願成就、特に眼病平癒に最も霊験あらたかなりと称されて居
    ります。
         酉年御開帳記念           昭和56年4月建立

山門です

山門の説明版です
   山門
     現在の山門は、慶応2年(1866))村上の宮大工板垣伊兵衛の指揮のもと、
    大工・木挽きなど延べ総数五千有余人、実に8年の歳月をかけて建立した欅造りの
    楼門である。楼門の四囲の桁間には、美しい十二支の彫刻が施されている。
     又、両袖に立つ阿吽の仁王様には、かんだ「紙つぶて」を身体の悪い箇所に吹き
    つけ、病気の平癒を祈った信仰があり、今にその跡がうかがわれる。

本堂前の石段です

本堂です

本堂の説明版です
   本堂
     鎌倉時代、源頼朝卿の叔父護念上人に依って、比叡山より勧進された三国伝来の
    本尊不動明王が祀られている。
     現在の堂宇は、明和7年(1770)に再建されたもので、入母屋造りのお堂で
    ある。
     昭和38年草葺き屋根から銅板屋根に葺き替えられた。
     内部は、本尊保安殿(昭和56年完成)内陣外陣に分けられ、本尊宝前において
    護摩を修する真言密教の根本道場である。



鐘楼です

参道西側には杉の大木が並びます


開基護念上人の石碑です


水盤の後ろには、枯れてしまった御神木の幹が残っています

参道西側の建物は籠り堂です

籠り堂の説明版です
    籠り堂
      昔より主に重い眼病、当病の人々が平癒・成就のため、このお堂にお籠りしひた
     すら精進祈願した行堂で、その名がある。
      戦前までは、門前の旅籠やで数ヶ月から一年も泊まって、一日6回、このお堂で
     専心念仏を唱え、その声と鐘の音が山内に鳴り渡った。
      この鐘(現在本堂にあり)には、天明4年(1784)の銘があり往時を偲ばせ
     てくれる。




参道東側に大スギです

本堂前から見上げました

不動明王像があります

南側から

東側の地蔵堂です

地蔵堂の説明です
   地蔵堂
     元文5庚申年(1740)享和4甲子年(1804)の刻銘がある古い地蔵尊で、
    延命地蔵・子育地蔵として童子老若男女を問わず信仰をあつめ、山内で最も参詣者の
    心中身辺に親しまれている仏様である。


南東側から、大スギの前にはケヤキの大木です

南側の建物は天満宮です

弁天堂です

弁天堂の説明版です
   弁天堂
     祀られている弁財天は、俗に七福神の一つ弁天様と言い、財福・音楽の女神である
    と同時に、知恵の神様ともいわれ、いつの頃からか、女の人が心願成就のため、大事
    な頭髪や髪飾りを奉納するようになった。
     元来弁財天は、インドの聖河の化身と云われ、当初、この弁天池にあったものを、
    明治年間、みたらせの滝脇に移建し、平成元年旧に復し堂宇を建立遷座したものであ
    る。

本堂西側には薬師堂です

薬師堂の説明版です
   薬師堂
     祀られている薬師如来は、寛永3年丙寅(1626)中興の祖、観山によって米山
    薬師から勧進されたと伝えられ、はじめ鳥屋ノ峰に、次いで、西方薬師山に堂宇が建
    立されてあった。平成元年に当堂に安置した。
     御前立尊像は、左手に薬壺を持ち、衆生の病難を救って下さる医薬の仏様である。

開山堂です

開山堂の説明版です
   開山堂
     今をさる800年前、源平の戦乱をのがれ、比叡山無動寺より不動明王を請来(文
    治元年1185)され、この菅谷の里に初めて当山を開基された源頼朝卿の叔父君護
    念上人をお祀りする御堂である。
     上人は開山の後、頼朝卿の懇願により遠く鎌倉に赴き、大姫の病を本復させたこと
    が幕府の記録「東鑑」に記述されている聖僧である。
     開基上人に因んで当山では、源氏ゆかりの「笹りんどう」を寺紋としている。


みたらせの滝の説明版です
   みたらせの滝
     正元4年(1210)に源頼朝卿の寄進により建立された七堂伽藍は、建長5年(
    1253)の春、雷火のため悉く焼失したが、その時ご本尊のみは「みたらせの滝の
    中に数多くのたにしに守られ、尊像は毫も損じ給わず」とご縁起にあり、誠に不思議
    な霊験と今に伝えられている。
     以来、滝つぼに「たにし」を奉納し、滝不動に水をかけ多くの人々に親しまれてる
    又、この水は、古くから眼病に霊験ありとしても知られている。

ここにも不動明王像がありました

では、次へ行きましょう
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長野県箕輪町、箕輪南宮神社のケヤキ樹叢です!!

2017-09-12 07:51:33 | 巨樹・大木
箕輪町役場の南約3kmのところ、国道153号線沿い東側に南宮神社があります

JR飯田線の東側のバイパスではなく西側の旧道の方です

木下信号と、JR飯田線きのした駅入口の間にあります

神社の南側道路に車を止めさせて頂きました


国道(西側)から境内を見ました

手水舎です

池が有ります

鳥居です、箕輪南宮神社の額が懸ります

文化財説明板です
    箕輪町指定文化財
      箕輪町文化財保護条例第三条の規定により左記の通り指定する。
       1、種別  有形文化財(天然記念物)
       1、名称  南宮神社社叢
       1、所在地 箕輪町大字中箕輪12500番地
       1、指定年月日  平成元年7月12日
       記
      箕輪南宮神社の創建は詳らかでないが、中世の文安2年(1445)箕輪城主箕輪左衛門尉
     義雄が、一宮からこの地に還したものという。
      当社叢は、現在地へ遷宮の時点およびその後御神木として植えた木々が、成育して今日の姿
     になったものと思われる。
      目通り7m余りの大木をはじめとする9本のケヤキを主とし、そのほかサワラ・スギ・マツ
     エンジュ・イチョウ・カエデなどの諸樹からなる社叢は、遠望しても樹下にあってもまことに
     壮観である。
      樹齢は、ケヤキの最大のもので、遷宮の時の植樹とすれば、540年ほどになる。
                                    箕輪町教育委員会

境内真ん中に立つこのケヤキが目通り7mの巨木です

社務所の建物です

鳥居脇のケヤキです

境内南西端のケヤキです

社殿南側にある二本のうちの一本です

もう一本です

拝殿です

本殿覆い屋です

文化財説明版です
    箕輪町指定有形文化財
      1、種別 有形文化財(建造物)
      1、名称 箕輪南宮神社本殿
      1、所在地 箕輪町大字中箕輪12500番地
      1、指定年月日 平成元年3月17日
        祭神は建御名方命、八坂刀賣命
     箕輪南宮神社は近世箕輪郷三十三ヶ村の総社で春宮ともいい、これに対し
    天竜川東岸の三日町には秋宮がある。本殿の形式は一間社流造で、主屋の四
    方に縁を回し、擬宝珠高欄(欄干)がつく。
     寛政9年(1797)に造営されたもので、棟梁は諏訪大隈流の伊藤(芝
    宮)長左衛門である。長左衛門は諏訪大社下社春宮の作者として知られる人
    物で、躍動感あふれる彫刻は、北小河内の五社権現本殿とともに、長左衛門
    の代表作として知られている。
                        箕輪町教育員会

神楽殿です

拝殿脇から一番太いケヤキの御神木を見上げました

境内南側から境内のケヤキ4本を見ました

では、次へ行きましょう




ここまで8月22日・23日の山梨・長野の取材でした 
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長野県伊那市、高遠城跡の続きです!!

2017-09-11 10:33:17 | 城跡・館跡・陣屋跡

本丸に問屋門から入ってすぐを左へ進むと堀に橋が架かっています

深いほりです

北側の堀は木々が生い茂っています

説明版です
   南曲輪
     本丸の南に位置する曲輪で、名君保科正之公が幼少の頃、母お静の方と居住した
    ところと言われている。形状は方形をなし、本丸とは掘内道、二ノ丸とは土橋でつ
    ながっていた。
     本丸から南曲輪へは現在土橋となっているが、これは本丸南東の隅にある巨大な
    中村元恒・元起記念碑を建てるために造られたものである。また、明治30年(1
    897)それまで雑草や小笹が生い茂った荒地であったが、靖国招魂碑を建てるに
    あたり、地を削り広めて平地に整備したといわれている。

更に東へ行きます

白兎橋です

説明版です
   白兎橋
     文政の頃、高遠で酒造業を営み、藩の仕送役を勤める廣瀬治郎左衛門(1768
    ~1843)は、その号を白兎と称し、謡曲・俳諧・和歌などを嗜む風流人であっ
    た。文政の百姓一揆の際には、自家の米蔵を開放して奉行所に押寄せた百姓らに与
    え、大事に至らせずにすんだという。
     また、多町に通じる弁財天橋を自費で修理するなど、公共のために尽力した。
     その曾孫、省三郎(奇壁)は私有地となっていた法憧院曲輪を買上げ、それを公
    園として寄付した。その時、南曲輪へ通じるこの橋を造り、曽祖父の俳号にちなん
    で「白兎橋」と名づけたのである。
白兎橋の袂、南曲輪にはモミの大木が在ります、城内には桜の古木や紅葉なども多い中で一番の大木のようです

北側の堀の様子です

白兎橋の上から高遠の町を見下ろしましたが、木々が重なって良く見えませんね~

法憧院曲輪です、大きな記念碑が真ん中にあります

説明版です
   法憧院曲輪
     二ノ丸から掘内道で通じていたこの曲輪は、城郭の南端に位置し、曲輪の東方に
    は幅6m、長さ170mの馬場が続いていた。
     かつて、ここには法憧院というお寺があり、高遠城落城の際には、法要が行なわ
    れたが、城中という立地的制約があったため、一般の人も参詣できるようにと、城
    の東、月蔵山のふもとの龍ヶ澤に移り桂泉院と改名して現在に至っている。
     この曲輪からは、西に中央アルプス、東に南アルプスが望め、桜の時は残雪が、
    紅葉のときは新雪が目にも清かに映る。

説明版です
   廣瀬奇壁 河東碧梧桐 句碑
     この碑の表は、高遠出身の鉱山業者で、高遠閣建設に尽力されたことで知られて
    いる廣瀬省三郎(俳号奇壁)の句で、遠く東の方、仙丈ケ岳を眺めて詠んだもので
    ある。
   斑雪 高嶺 朝光 鶯 啼いて居(はだれ たかね あさかげ うぐいす ないてい)
     裏面は奇壁と交流があった河東碧梧桐の句で、西方、駒ヶ岳の残雪の雪形が、駒
    (馬)の姿に見えるようになった情景を詠っている。
   西駒は斑雪てし尾を肌脱ぐ雲を
     また題字の「嶽色江聲」は高遠出身の近代洋画界の奇才で、独特のスタイルをもつ 
    書家でもあった中村不折の揮毫によるものである。
   
では、駐車場へもどって、次へ行きましょう
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長野県伊那市、高遠城跡です!!

2017-09-11 06:06:34 | 城跡・館跡・陣屋跡
高遠城跡は、伊那市役所の東約10kmのところ

国道361号線を東へ、天竜川の支流、峯川右岸を進みます

突き当りの丘が高遠城跡です

右側の公園入口から大手門から城跡へ入ります

本丸手前の広い郭跡が駐車場になっています

説明版です
   勘助曲輪(史跡 高遠城跡内)
      指定 国指定史跡 昭和48年5月26日指定
      所在地 伊那市高遠町東高遠
      所有者 伊那市ほか
     高遠城は戦国時代、武田信玄の命により山本勘助が縄張(設計等)をしたと伝え
    られています。
     勘助曲輪の名称は、設計者の山本勘助から由来しますが、築城当初この曲輪はな
    く、大手口を東側から西側へ移した際、新に造成されたのではないかと言われてい
    ます。かつては、ここの駐車場の中央に堀があり、南側が勘助曲輪、北側が武家屋
    敷となっていました。曲輪周囲の堀は、戦後埋め立てられ、旧高遠高校グラウンド
    として使われた後、現在は駐車場と成っています。
     勘助曲輪の広さは769坪(2542㎡)で、曲輪内には櫓や祭事事務所、硝煙
    小屋、稲荷社等がありました。このうち、稲荷社は幕末に城下へ払い下げられ、勘
    助稲荷として、西高遠の相生町に祀られました。

二の丸への登り口ですが、大手からの道側にまわります

高遠城跡公園案内図です

国指定史跡 高遠城跡 高遠城址公園と成っています

橋を渡ります

二の丸と大手道の境の堀です

天下第一桜の大きな石碑が有ります

桜の古木が並ぶ二の丸を進みます

本丸へ向かいます

右に曲がると橋が見えて来ます

本丸入口です


左右の堀の中には、木々が繁茂しています

本丸入口の門(問屋門)です

説明版です
   問屋門
     この門は、高遠城下、本町の問屋役所にあった問屋門である。
     江戸時代、主な街道には宿駅が定められ、問屋と称する公用の荷物の継ぎ送り、
    また、旅人の宿泊、運輸を取り扱う町役人をおいていた。
     高遠の問屋は、2人の名主との合議によって町政にも参与していた。
     昭和20年代、問屋役所建物取り壊しの際、他に売却されていたが、歴史ある門
    が高遠から失われることを惜しんだ町の有志が買い戻し、募金を集めて現在地に移
    築したものである。
     現在では、手前の桜雲橋とともに、城跡には欠かすことのできない景観シンボル
    となっている。

本丸に入ります

説明版です
   高遠城の戦い(古戦場跡)
     天正10年(1582)2月、織田信長は、信玄亡き後の武田氏の混乱に乗じて
    一気呵成の攻略に転じた。
     伊那口からの嫡男信忠率いる5万の兵の進攻に、恐れをなした伊那谷の諸将は、
    城を捨て逃亡、あるいは降伏して道案内をするなど、織田軍は刃に血塗らずして高
    遠に迫った。
     時の城主、仁科五郎盛信(信玄の5男)は、降伏を勧める僧の耳を切り落として
    追い返し、わずか3000の手兵をもって敢然とこの大軍を迎え撃った。古来「要
    害は必ず兵禍を被る」と言われるが、この城も盛信以下将兵決死の奮戦にもかかわ
    らず、雲霞の如き大軍の前には如何ともし難く、3000の兵はことごとく城頭の
    花と散り果てた。城主盛信は腹をかき切り、自らの手で腸を壁に投げつけて果てた
    と古書伝えている。
     この後、武田勝頼は、諏訪上原城から新府に退き、天目山で自害した。高遠城の
    戦いは、かの強大を誇った武田氏の最後を飾る戦いの場となったのである。

本丸に入って右側の様子です、低い土塁が廻っています

左へ行きましょ

説明版です
   本丸跡
     高遠城は巧みに天然の地形を利用し、本丸を段丘の突端に置き、東から北にかけ
    て二ノ丸、さらに、その外側に三ノ丸を廻らした城郭三段の構をもっていた。
     天正10年(1582)城主仁科五郎盛信が織田軍に敗れ壮烈な戦死を遂げた後
    高遠城の城主は保科氏、鳥居氏と替わり、元禄4年(1691)からは内藤氏が廃
    藩まで8代、180年間にわたって城主であった。江戸時代、本丸には城主の権威
    の象徴たる天守閣はなく、平屋造りの御殿や櫓、土蔵などがあった。
     本丸御殿は政庁であるとともに、藩主住居も兼ねていたが、廃城時、城内の建物
    は取り壊され、今では明治8年(1875)頃に移植された桜の古木が毎年美しい
    花を咲かせ、幾多の武士の眠るこの地に散華となって降り注いでいる。

南側に櫓が有ります

説明版です
   太鼓櫓
     江戸時代には、時を報じるのに太鼓を打っていた。鼓楼は搦手門の傍らにあって
    楼上に三鼓を備え、常に番人をおいていて、時刻がくると、予備の刻み打ちを繰り
    返した後、時の数だけ太鼓を打って時を知らせていた。
     廃城の際、有志によって対岸の白山に鼓楼が新設されて時を報じていたが、明治
    10年(1877)頃に本丸、西南隅の現在地に移し、旧制どおり朝6時から夕方
    6時まで偶数時を打つことが昭和18年(1943)まで続いた。
     戦後、太鼓は三ノ丸にあった高遠高等学校で、授業の開始、終了を知らせていた
    が、現在は、高遠町歴史博物館に展示されている。

高遠町を見下ろしました

北西隅に神社があります

社殿です

説明版です
   新城(盛信)神社・藤原神社の由来
     天保2年(1831)7代藩主内藤頼寧は、家臣中村元恒の建議により、天正
    10年(1582)当城において織田の大軍を引き受け、壮烈な最期を遂げた武
    田信玄の5男、仁科五郎盛信の霊を五郎山より城内に迎え「新城神」と称して祀
    り崇拝した。
     以前より城内には、先代内藤頼以が内藤家の祖神である藤原鎌足公を勧進した
    「藤原社」があったため、廃藩後の明治12年(1879)この神社を「新城神」
    と合祀して今日に至っている。
     なお、宝物として内藤家寄進の甲冑、その他の文化財があったがそれらは現在
    高遠町歴史博物館に保管されている。


では、南曲輪に行きましょう
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長野県大鹿村、鹿塩の矢立て木(サワラ)です!!

2017-09-10 06:19:49 | 巨樹・大木
矢立て木が有るのは、大鹿村の北の端

大鹿村役場の北約12kmのところ

国道152号線(秋葉街道)を北へ道なりに進みます

もうすぐ高遠町との境の分杭峠が近づいたころ

道路脇に案内板が有ります

案内板の脇に車を止めることができます

矢立て木入口です

橋で鹿塩川源流を渡ります

案内板です、もうすぐです

矢立て木です

説明版です
  矢立木
    さわらの大木。(樹高29m、周囲6,1m)樹齢約500年。
    戦国時代末期、遠山御を治めていた遠山一族が、武田参勤の折にこの木の
   根元へ弓箭(弓と矢)を立て弓術の修練に励みました。
    以来、この木を矢立木と呼んだといわれています。
    明治の中頃、村有林の立木処分の際、由緒ある古木として切らずに村指定
   天然記念物として今日まで残されています。
        大鹿村指定天然記念物
                   大鹿村教育委員会

南側から隣の細い幹は枯れてしまっています

北側から見上げました

矢立て木の根元を通る道が秋葉街道だったのですね

では、次へ行きましょう
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長野県飯田市、上村御池山隕石クレーターです!!

2017-09-09 07:04:08 | 遺跡・史跡
御池山隕石クレーターは、飯田市役所の南東約14kmのところ

赤石尾根上を走る広域基幹林道南アルプスエコーラインの頂上付近

御池山(標高1905m)の東斜面に在ります

南側のエコーライン入口の下栗の里から更に登りが続きます

約10km登って御池山の東の出たところで

日本で唯一御池山クレーターの案内板が有ります

切り立った岩があります

ほぼクレーターの縁に沿うように林道が走っています

クレーターの端の案内板です

展望台入り口に案内版が有ります
   日本初!「御池山」隕石クレーター総合案内板
     御池山んせきクレーターは、直径約900m、2万~3万年前に直径約45mの
    小惑星が衝突してできたものと推測されています。もともと地形が急な斜面にクレ
    ーターができたために、侵食して崩れた部分が多く、残っている部分は約40%で
    すが、御池山山頂の尾根沿いに半円形の地形が残っている。日本初の自然科学遺産
    です。
     いん石クレーターは、宇宙から流れ星となって落下する小惑星・すい星などが燃
    えつきずに、地上に衝突した際にできたいん石孔です。この御池山いん石クレータ
    ーができた約2万~3万年前地球は、氷河期の終わり頃、日本列島も中国大陸とつ
    ながっていていて、ナウマンゾウが棲息していた時代と見られます。
     御池山遊歩道沿い
       クレーターの縁を歩きながら御池山山頂までのハイキングが楽しめます。
       片道1.5km、往復1時間半
     エコーライン沿い
       クレーターによってできた特徴ある地形を見ることができます。

                          平成16年  飯田市

広い駐車場ですが、雲が出てきています

クレータ北側縁の山が見えます

この先がクレーターのようですが、ガスがかかって見えなくなってしまいました

では、次へ行きましょう 
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長野県飯田市、天空の里下栗ビューポイントです!!

2017-09-08 06:50:08 | ドライブ
飯田市役所の南東約14kmのところに下栗の里が有ります

急傾斜地に住宅が点在し農作物を作っています

そんな下栗の里を見渡すことのできる展望台があります

下栗の里の一番上に高原ロッジやはんば亭・農産物などの直売所があります

南アルプスエコーラインの起点です、ここから歩いても行けます

展望台遊歩道への入り口は2曲がり登った上に在ります

手前に駐車場が有りますので、こちらを利用させていただきました

展望台遊歩道入口です

天空の里展望台の案内板がありました

「まごころの杖」竹の杖が用意されていますので借りて行きましょう


ここで遊歩道を利用する人の数を計測しているようです、ここから1kmほどです

ゆるく登っていきます

あと500mの案内板がありました

あと350mです

あと200mです

少し下ってあと100mですが、まだ展望台は見えません

更に下りになりました

展望台です

「天空の里」下栗です




斜面の家々が朝日を受けて綺麗でした

では、次へ行きましょう
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長野県飯田市、遠山郷土館和田城です!!

2017-09-07 07:52:22 | 城跡・館跡・陣屋跡
龍淵寺は、嘗ての和田城の跡です

遠山川と上村川の合流点に向って突き出した尾根の先端部

長い石段を登った龍淵寺境内と同じ平面上に郷土館和田城があります

車で急な坂道を上がってくると、龍淵寺の駐車場を利用できます

郷土館の入り口です、前の道路の先が龍淵寺の駐車場です

案内板です
   遠山郷土館和田城
     遠山郷の領主遠山氏は、多年居住していた名古山長山城からこの地に移り、
    天文の末頃(1550)和田城を築きました。
     しかし、遠山氏は元和3年(1617)に家督相続のもつれから家督不取締
    のかどで改易となり、幕府直轄領となった為、武家諸法度の一国一城令により
    和田城は廃止されました。
     その後、慶安元年(1648)家光より龍淵寺へ朱印地として下付され、慶
    安4年(1651)以後、寺の境内地となっていましたが、幾星霜を重ね再び
    この城址に、郷土のシンボルとなる郷土館和田城を建設しました。
                       平成2年10月吉日 

郷土館は「あやしい天守閣」そのものですね~

説明版です
   和田城
     本城は遠山氏3代の本拠をもった遠山景広が築城した城で、西南より南に続
    く平場で前面は遠山川を見下ろし、伊那山脈の南端をなす、後面は赤石連峰が
    あり、四方を山で囲む遠山谷のなかでもっとも広い和田平野の中心にいちしま
    す。
     展望は、南西は谷間に開けて十原城・長山城・大町城・満島方面の連山を望
    み、北方は合戸峠を望み、盛手山の中腹に登ると、熊野城・中根城方面、数里
    離れた程野地蔵峠を望み、遠山領域を一望できる盛平山を背景とした和田城で
    ある。
      本丸
     西より南に麓をめぐる半月形の細長い平坦地で、東西12間及至23間、北
    は龍淵寺境内にして南西面に広がって、背後は盛平山の急傾斜となり、南北西
    の三面は高さ40尺乃至60尺の断崖となっている。
      出丸
     本丸の北西部に突出て一段低く細長い平場で、広さは、長さ20間巾約5間
    北西に突端して出丸の三面は、断崖である、現在はこだま観音を祀ってある。
      城下町
     和田城本丸台地の下に展開する平坦地は城下町であった、城下町は和田宿で
    、現在、本町・新町で小池沢下流の堆積地で、南は正善寺下から、北は新町山
    麓まで約4町、東は尾屋敷より遠山川に約3丁の広がりが城下町である。
      (1)尾屋敷
     城下町東方の山麓、現在の老人福祉施設近辺の一帯は遠山氏またはその重臣
    の邸宅地であった。
     

家康と対面する遠山土佐守の銅像です

城址から望む和田の街並みです

では、次へ行きましょう


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長野県飯田市、南信濃和田龍斑寺の観音大杉です!!

2017-09-06 08:23:40 | 巨樹・大木
南信濃和田は、飯田市役所の南南東約24kmのところ

天竜川の支流、遠山川沿いを通る国道152号線は秋葉街道と呼ばれています

飯田市内からは、下伊那郡喬木村を県道251号線で小川川沿いの山道を進み

三遠南信道の矢筈トンネル(4.17km)を貫けると上村です

飯田から山一つ東、かつての南信濃村です



龍淵寺参道入り口です


山門です

手水舎です

本堂です

鐘楼です

車を駐車場まで上げて来ました


駐車場から見ました

観音大杉に行きましょう

本堂前への通路です

墓地入口の石段の上に観音杉が並んでいます

石段を上がって墓地の中から見ました、一番右側の杉が目通り幹周りmの巨木です

龍淵寺境内は和田城跡です

隣の遠山郷土館和田城に行きましょう
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山梨県南アルプス市、国指定天然記念物三恵の大ケヤキです!!

2017-09-05 06:32:16 | 巨樹・大木
三恵の大ケヤキが在るのは、南アルプス市役所の北東約3km

県道116号線下今井を西に入ったところです

左手に駐車スペースを挟んで大ケヤキが立っています



西側駐車スペースから見ました

説明版です
  三恵の大ケヤキ
     昭和2年11月30日
     国指定天然記念物
    県下屈指の大けやきである。
    樹齢1000年を経るというも推測であるが、相当年を経た巨樹である。
    古い時代の落雷によって西方はそがれてあるが、子女20人は充分に入れ
    る空洞をつくっている。
    樹高25m、根廻り17,28m、目通り幹囲14,35m。5巨枝が四
    方に広がり、折損枝はあるも遠くから望んで小山の観がある。
                   山梨県教育委員会
                   南アルプス市教育委員会


北側の幹の様子です、黒く焦げたようなところもあります

北東側から、鉄柱で大枝が支えられています

南東側から

南側から、大きな空洞が痛々しく感じられます

では、次へ行きましょう
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長野県駒ケ根市、東伊那伊那森神社のケヤキです!!

2017-09-04 06:34:15 | 巨樹・大木
東伊那地区は、駒ケ根市役所の東北東約4kmのところ

天竜川の東側を通る県道18号線から少し西に入った所に

伊那森神社が鎮座しています

境内に駐車スペースが有ります


赤い鳥居が建ちます、額には諏訪社と成っています

手水鉢です


東向きの拝殿です、右側にケヤキは在ります

拝殿の額には伊那森神社とありました

本殿です



南側には、御神木の杉が在ります、目通り幹周2m程でしょうか、まだまだ若い杉のようです


境内社です

双体道祖神です

拝殿脇から見上げました

景観保存樹木になっています、樹齢300年(推定)指定第2号 平成9年4月の表示版が有ります

北側から、目通り幹周り6,9mの巨木です

では、次へ行きましょう

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山梨県笛吹市、熊野神社の大ケヤキです!!

2017-09-03 06:05:46 | 巨樹・大木
熊野神社は多い名前ですので、この神社がどこにあるか見つけるのに苦労しました

笛吹市役所の東北東約3kmのところ

カーナビの指示に従って進んだところ、車が信号待ちで長蛇の列になっています

信玄餅で有名な桔梗屋の工場直売所入り口に入り込んでしまいました

熊野神社へは、県道312号線を北に進むと熊野神社南の信号が有ります

神社へは東側へ入って回り込むように進んだところ

浄光寺の北側に参道が東向きにあります

浄光寺の境内に車を止めさせて頂きました

参道入り口から見ました、左側に目的の大ケヤキです

目通り幹周り5,6mの巨木です

拝殿前から

南側から見上げました

根元には、丸い石がたくさん有りますが力石でしょうか

右側のケヤキです

拝殿前から、主幹が折れてしまっているようです

拝殿です、社殿の後ろにも大きな樹冠が見えています

本殿です

本殿西側の大ケヤキです

北西側から、大分傾いていますが、大きな樹冠を支えるに十分な幹の太さが有るようです

鳥居脇の大ケヤキよりわずかに細いようです

南側から見上げました

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