ビーズうさぎのハナちゃんです!!

日々の生活、山登りや釣り、ドライブなどをアップします。ここの所、巨樹めぐりがメインですが!(汗)

山梨県甲州市、勝沼町等々「力萬福寺のムクノキ」です!!

2018-12-03 07:38:11 | 巨樹・大木
勝沼町等々力地区は、甲州市役所の南南西約4kmのところ

国道411号線の等々力信号北西側住宅地の中を入って行くと

ブドウ畑の中(ぶどう狩りの人達で賑やかです)に萬福寺が有ります

山門前に車を止める事が出来ました

勝沼地域案内です、現在地のすぐ上の卍マークが萬福寺です

参道から大きな木が在るのが分かります

山門です

浄土真宗本願寺派 杉之御坊 萬福寺です

説明版です
  萬福寺
 杉之御坊の名をもつ浄土真宗本願寺派触頭の寺。寺記
によれば、推古天皇12年(604)聖徳太子の命によ
り創建されたとも、巨摩郡にあった天眼寺を移したとも
伝えられ、法相、天台、真言三宗兼の道場であったが安
貞2年(1228)に遊化した親鸞の教えに従い寛元2
年(1244)浄土真宗となり、元亨元年(1321)
には十二坊が興されたという。南北朝期は天皇の祈祷所
室町期には将軍家祈祷所となり、武田氏の庇護のもと武
田信玄と本願寺・一向一揆衆との連絡をこの寺の実了師
慶が取り持った。
 江戸時代に入り元和年間の火災により堂塔を失い、正
保3年(1646)には十二坊中九防が独立移転し寺町
を形成し、寛延2年(1749)寺町火事の飛び火で宝
蔵と柩堂を残し三十九棟の堂塔が焼失し、宝暦10年(
1760)から諸堂の再興がはじめられ、文化年間には
本堂・客殿・方丈・庫裏・小書院・玄関・太子堂・開基
堂・存古堂・経蔵・御殿・鐘楼・中門・総門を備えてお
り、当時の様子は境内絵図により知ることができる。
               勝沼町教育委員会


山門を入って直ぐ左に、目的のムクノキが在ります

山梨の巨樹・名木100選です

参道から見上げました、目通り幹囲5,0mの巨木です

北西側から

西側から、根張りの力強さからもっと大きく見えますね

馬蹄石です、聖徳太子の乗った馬の蹄の跡があります


参道右手に鐘楼です

本堂です


六角堂です

では、次へ行きましょう
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山梨県甲州市、勝沼等々力「諏訪神社のケヤキ」です!!

2018-12-02 05:47:21 | 巨樹・大木
勝沼町等々力地区は、甲州市役所の南南西約4kmのところ

国道411号線の等々力信号から県道34号線を東へ少し行くと

県道34号線の北側に諏訪神社が鎮座します

境内に車を止める事が出来ました

県道34号線に参道を開いています

参道を進むと、鳥居の先に大きな樹冠が見えます

諏訪神社です


目的のケヤキです

境内側参道から見ました、目通り幹囲5,2mの巨木です

手水舎です

狛犬です

拝殿です

本殿です

説明版です
  諏訪神社本殿棟札
    勝沼町指定文化財
    平成6年3月31日指定
 諏訪神社は等々力の産土神で、建御名方神と事代
主命を祭神とする。境内にはこの他、天神・稲荷・
石尊・痘瘡・白山・太神・蚕影・秋葉・道祖神等の
諸社がまつられている。
 当社由来は「甲斐名勝志」「甲斐国志」「社記・
寺記」等によれば、巨摩郡の笠屋神社を移したとも
、聖徳太子の命を受け、萬福寺を創建した調子麿を
まつるため建立されたともいう。
 本殿内部に保存されている棟札及び板書等は左記
のものがある。
1、天和2年(1682)諏訪大明神社殿建立板書
2、享保3年(1728)神殿修復遷座札及び梁書
3、寛政6年(1794)笠屋神社棟祭札
4、文化13年(1816)諏訪大明神神殿修繕屋
 根替札2点
5、明治14年(1881)本殿瓦葺改修札
6、昭和33年(1958)笠屋神社諏訪大神鎮座
 札
 これらの棟札類は、草創由来の変遷を示すと共に
、三百年余におよぶ本殿修復の社会的、建築的経緯
を知る上で貴重な記録である。
              勝沼町教育委員会





境内社が本殿の周りに点在しています

拝殿東側の杉の大木です、注連縄が巻かれた御神木のようです


本殿脇から見上げました、目通り幹囲4,53mの大木だそうです

では、次へ行きましょう
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山梨県韮崎市、韮崎町岩下「勝手神社のケヤキ」です!!

2018-12-01 10:25:26 | 巨樹・大木
岩下地区は、韮崎市役所の東約1kmのところ

JR中央本線にらさき駅の南側、韮崎小学校の東側のガードを潜り

塩川を渡ります、渡って直ぐを北へ入り道なりに北へ進むと

参道入口の鳥居が見えて来ます、参道を進むと境内に入ります

神社北側の道路脇に車を止めさせて頂きました




参道入口です

鳥居の説明版です
 県指定文化財
  勝手神社の石鳥居
    1、所在地   韮崎市韮崎町岩下 勝手神社境内
    1、指定年月日 昭和34年2月9日
 説明
  勝手神社は、社記によれば、祭神は正哉吾勝勝速日天穂耳尊
 ・愛鬘命・武甕雷命の三柱で、村上天皇の御代、応和元年(9
 61)に大和国吉野山から勧請した古社である。この石鳥居は
 形式は明神鳥居で石質は安山岩。高さ1,72m、柱間々幅1
 ,20mの、まれに見る小形の鳥居である。右柱に「二位」、
 左柱に「仲書記 本願」、貫には、五行にわたり、「時天禄元
  庚午十月 奉破損 文政二 己卯四月」と刻してある。破損
 とは、当時の用語で、修理の意味である。
  しかし、文化11年(1814)に成立した「甲斐国志」に
 は、「石華表、高さ六尺、柱囲四尺許、命禄元庚子十月日 二
 位 仲書記本願 ト刻セリ」とある。命禄は私年号で、その元
 年は、武田信虎治世の天文9年(1540)に当たり、天禄元
 年を降ること570年である。この石鳥居が天禄元年庚午のも
 のであるか、又は命禄元年庚子のものであるか、その決め手と
 なるべき修理以前の古い貫の所在が、昭和48年11月、韮崎
 市誌の文化財部門執筆委員植松又次氏により発見された、氏は
 精密な拓影を検討した結果、当初命禄元庚子と刻したものが、
 後年、天禄元庚午と改刪されたものであると、明快に断定を下
 した。したがって、従来天禄元年と一般に是認されてきたこの
 石鳥居の造建年次は、ここにおいて命禄元年、すなわち天文9
 年と修正するものである。その結果、室町末期の形式を持つ鳥
 居として見ることになるが、太い柱に幅狭い島木、笠木を載せ
 た具合、その厚さの比率、更に全体的な真反り等、捨て難い趣
 がある。
  峡北地方は、本県の中世以前の石鳥居の遺構が、最も濃密に
 分布している地域であるが、この鳥居は、それらの代表作とみ
 られる。
                   山梨県教育委員会
                   韮崎市教育委員会






勝手神社です

狛犬です

手水舎です

神社由緒碑です
 かけまくも畏き勝手明神は全国に三社、当社はその一社である。
 高く聳ゆる御神木、天禄元年二位仲書記本願と刻む時代を経た石
鳥居、文明10年幸満霊魂の石塔等を保存し、神社、伝説、腰巻社
家が一体となり今日に及ぶ。天文3年腰巻長門守盛家が神主の頃に
は、天禄の鳥居正面、小山の上に本殿があった。慶長・明和と村に
大火があり、社家・本殿・古記を失った。防火の為に、現在の位置
に本殿を再建し。又、安永4年に新鳥居を建てた。塩川の水害は徳
川時代に激しく、鎮座の小山は自らを暴流にけずらせて氏子の家々
を守り、遂に平地となった。
 岩下は信州への要路、塩川・釜無川渓谷文化の入り口の由緒深い
里で信玄公は韮崎合戦の時、境内を本陣として勝、深く尊信せられ
し由。時移りて文政2年には、倒木による天録の鳥居の破損を修理
した。随身門・庁の屋などは、明治中期まで残っていて荒廃の姿は
悲しまれた。
 この度誰いうとなく、神域整備の声が起り、力を合わせて安らけ
くその功を終えた。これこそ先祖代々の敬神の志を継ぐ大考にて、
八百万の神々もみそなわし、朝日の豊栄登りに行末長く守らせ給う
所である。
     昭和44年秋   篆額 山梨県知事 田辺國男
              撰文 文学博士  伊木壽一
                 文学博士  小池藤五郎
                       今川峰瑞 謹書





社殿正面の境内に目的のケヤキです

天然記念物標柱です
 市指定文化財 天然記念物
  勝手神社のケヤキ
     昭和46年7月1日指定
  所有者 韮崎町岩下勝手神社
     平成8年1月31日再建 

北側から

北東側から、目通り幹囲6,0mの巨木です


拝殿です

拝殿右手のケヤキの大木です

境内社です

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