野午島地区は、南アルプス市役所の北北東約7km、南アルプス市八田窓口サービスセンターの北約600mのところです
南アルプス市八田窓口サービスセンター北側の八田農協前信号を西へ、約100mの横断歩道の先を右(北)へ入ります
約500mで左(西)へ、間も無く道路の右手に
目的のビャクシンの樹冠が見えました
南東側から
すぐ東側の駐車スペースを利用させて頂きました
南側から、根元はブロック塀に囲われています
東側から、標柱の南面に「野牛島のビャクシン」東面には「鎌倉御所五郎丸の墓」の文字が書かれています
説明版です
野牛島のビャクシン
県指定文化財(天然記念物)
昭和35年1月7日指定
根廻り 5.0m
目通り 3.8m
樹高 14.0m
ビャクシンはヒノキ科の高木であるイブキの一品種(常緑針葉樹)で、樹形の美しさなどから庭園や寺社境内に植えられることが多い。
この樹は、県下でも有数のビャクシンの巨樹であり、傍らには鎌倉時代の武士「御所五郎丸」(ごしょごろうまる)の墓と伝わる石塔と持仏を祀ったとされる観音堂が所在する。
地域には、かつてこの地に流された御所五郎丸は、持っていた杖をこの場所にさしたところ、それが根付いて、現在の大きなビャクシンになったという伝承が残されている。
平成30年3月 山梨県教育委員会・南アルプス市教育委員会
北側から見ました
ビャクシンの北側に「鎌倉御所五郎丸」のお墓が有ります、お花や供えものがされています
説明版です
鎌倉御所五郎丸の墓
南アルプス市野牛島276番地
京都生まれ比叡山育ちの五郎丸は、故あって、一条忠頼に従い甘利領に来たが、忠頼没後鎌倉御所で頼朝に仕え、小舎人童(こどねりわらわ)として身辺警護にあたっていた。
建久4年(1193)5月28日冨士の巻狩りの陣中において、曽我兄弟が工藤祐経をあだ討ちした事件が起きて、頼朝の身も危険になった。
五郎丸はとっさに女人の薄衣をかむり、弟五郎時𦤶をからめ捕える殊勲をたてた。しかし女装の兵法は武士道鼓吹に反するとする世論のため、頼朝より官職を免ぜられ、野牛島に送られた。
体力無双七十五人力、荒馬乗りの名人といわれて青年五郎丸は、この地に村人と親しみ生涯を終えた。
昭和54年3月1日 南アルプス市教育委員会
では、次へ行きましょう
南アルプス市八田窓口サービスセンター北側の八田農協前信号を西へ、約100mの横断歩道の先を右(北)へ入ります
約500mで左(西)へ、間も無く道路の右手に
目的のビャクシンの樹冠が見えました
南東側から
すぐ東側の駐車スペースを利用させて頂きました
南側から、根元はブロック塀に囲われています
東側から、標柱の南面に「野牛島のビャクシン」東面には「鎌倉御所五郎丸の墓」の文字が書かれています
説明版です
野牛島のビャクシン
県指定文化財(天然記念物)
昭和35年1月7日指定
根廻り 5.0m
目通り 3.8m
樹高 14.0m
ビャクシンはヒノキ科の高木であるイブキの一品種(常緑針葉樹)で、樹形の美しさなどから庭園や寺社境内に植えられることが多い。
この樹は、県下でも有数のビャクシンの巨樹であり、傍らには鎌倉時代の武士「御所五郎丸」(ごしょごろうまる)の墓と伝わる石塔と持仏を祀ったとされる観音堂が所在する。
地域には、かつてこの地に流された御所五郎丸は、持っていた杖をこの場所にさしたところ、それが根付いて、現在の大きなビャクシンになったという伝承が残されている。
平成30年3月 山梨県教育委員会・南アルプス市教育委員会
北側から見ました
ビャクシンの北側に「鎌倉御所五郎丸」のお墓が有ります、お花や供えものがされています
説明版です
鎌倉御所五郎丸の墓
南アルプス市野牛島276番地
京都生まれ比叡山育ちの五郎丸は、故あって、一条忠頼に従い甘利領に来たが、忠頼没後鎌倉御所で頼朝に仕え、小舎人童(こどねりわらわ)として身辺警護にあたっていた。
建久4年(1193)5月28日冨士の巻狩りの陣中において、曽我兄弟が工藤祐経をあだ討ちした事件が起きて、頼朝の身も危険になった。
五郎丸はとっさに女人の薄衣をかむり、弟五郎時𦤶をからめ捕える殊勲をたてた。しかし女装の兵法は武士道鼓吹に反するとする世論のため、頼朝より官職を免ぜられ、野牛島に送られた。
体力無双七十五人力、荒馬乗りの名人といわれて青年五郎丸は、この地に村人と親しみ生涯を終えた。
昭和54年3月1日 南アルプス市教育委員会
では、次へ行きましょう