中込石神地区は、佐久市役所の南西約1kmのところ
佐久市役所前信号を北へ進みます、約200mで上田信用金庫中込原支店前を左(西)へJR小海線の踏切を渡ります
約200mで左からの道路に合流して西へ、約500mの「佐久郵便局前」信号を左(南)へ国道141号線です
約600mで「石神」信号を左(南東)へ、約200mで道路右手に
真言宗 智山派 中込山 小林寺の参道入口です
山門前の
駐車場を利用させて頂きました
弘法大師一千年忌の石碑です
参道南側にケヤキの大木が3本並びます
一番東側のケヤキです
石仏や石碑です
枯れてしまったケヤキの切株です
参道わきでは西端のものが一番太ケヤキと思われますが目通り幹囲は3m程の大木です
北側から
西側から見ました
六地蔵様です
山門です
説明版です
中込山 小林寺
宗派 真言宗 智山派
総本山 智積院(京都)
大本山 成田山(千葉)・川崎大師(神奈川)・高尾山(東京)
開祖 弘法大師 空海(774~835)
中興の祖 興教大師 覚鑁(1095~1143)
宗史
平安時代、弘法大師空海は中国から密教を伝え、真言宗を立教開宗しました。
それより約300年を経て、興教大師覚鑁は高野山に大伝法院を建立して、真言宗を興隆、その後紀州に根来山を開創しました。やがて、根来山は秀吉の焼き討ちに遭い、智積院学頭職・玄宥僧正は、難を京都に避け、東山に智積院を再興しました。
後に智積院を中心に活躍していた全国3000の寺院は真言宗智山派として終結し、智積院を総本山と定めました。
小林寺縁起
当山は永禄10年(1567年・室町時代末期)に武田氏の家臣として活躍した小林五郎左衛門尉盛重により開基されました。当時は寺院というよりは、祈祷所と云うべきものであったと思います。
元和8年(1622年)には上州(群馬県)甘楽郡より僧瞬賢を招請して小林寺第1世住職として開山し、延宝4年(1676年)真言宗智山派総本山智積院(京都)の末寺となりました。
正徳5年(1715年)には、5世尊英が荒廃した寺院を整備・再建し中興第1租となっています。
寛保2年(1742年)8月1日の大水害で伽藍や仏像が被害を受けましたが、その都度、時の檀信徒の尽力により修復整備されてまいりました。
江戸末期の当山中興の名僧である第10世良慶(雲巣)に至っては、佐久の桀人と謳われ、学才に優れ、書画を巧みとし、参道入口の「弘法大師一千年忌」本堂前庭池の石碑「浣筆泉記」は師によるものであり、現在の境内の原型は良慶の代により築き上げられています。
また、当山は古くより寺子屋として、村内外より広く寺子を集め読み書きの手習いをしていました。
明治5年(1872年)に「学制」が発布された翌明治6年には「太鼓楼」が落成されるまでの間、小林寺を仮校舎に、「成知学校」として創立開校され、「中込学校」から現在の「中込小学校」へと変遷していきました。
六地蔵
中央の水子地蔵を除いた6体のお地蔵様を言います。私たちは生まれ変わり死に変わりを繰り返し六つの世界(六道)を巡ります。
六道とは、地獄道 悪行を積んだ者が墜ち種々の責め苦を受ける処
餓鬼道 嫉妬深い者や、欲深い者が墜ちる処
畜生道 鳥・動物・虫・魚等を妄りに殺生し、その報いで生まれ変わる処
修羅道 争いの世界。人の悪口を言ったり傷つけた者が赴く処
人道 人間界。人として生まれ、試されている修行の場
天道 とらわれのない世界。浄土
を意味し、6体のお地蔵様が、それぞれの道でお祓い下さいます。
本堂です
弘法大姉様です
お掃除小僧さんと説明版です
弘法大師 空海上人 青年修行僧像
真言宗の開祖。宝亀5年(774年)6月15日、四国の讃岐国で生まれる。幼名真魚。
15歳で大学進学のため上京するも、20歳で仏門に目覚め退学。
31歳で唐の長安に留学し、唐の恵果阿闍梨から密教の奥義を授かり帰国後真言宗を開く。
物心両面において、日本の歴史上類稀なる業績を残し、現在も「お大師さま」として多くの信仰を受ける。
承和2年(835年)3月21日高野山にて入定(入滅)62歳。
南無大師遍照金剛
*かつて墓地の南側に在ったという境内で最大の目通り幹囲6mのケヤキは伐られてしまっています
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