ビーズうさぎのハナちゃんです!!

日々の生活、山登りや釣り、ドライブなどをアップします。ここの所、巨樹めぐりがメインですが!(汗)

富山県入善町、下山「下山八幡社の大藤と境内林」(県指定)です!!

2024-04-22 06:30:08 | 巨樹・大木
 下山地区は、入善町役場の南南東約6kmのところ

 入善町役場前の国道8号線入善黒部バイパスを南西に進みます

 約1kmの「上野(中)」信号を左(南南東)へ、県道327号新屋上野線です

 約2.3kmで北陸自動車道の高架を潜ります、更に約700で北陸新幹線の高架を潜り

 約1.6kmで県道が左にカーブして東へ向かいます、約500mの諏訪社前で左からの道路に合流(南へ)します

 すぐの交差点を左(東北東)へ、約800mで丁字路を右(南東)へ

 約200mで案内板が建っています(南側から)

 下山八幡社の大藤と境内林 富山県指定天然記念物の標柱です

 そばに説明版があります
   富山県指定天然記念物
 1,名称 下山八幡社の大藤と境内林
 2,指定年月日 昭和40年1月1日
 3,説明
 社殿は段丘斜面の中段に建てられ、大藤はその社殿右後方の下斜面の林の中に生えている。
 3m位横ばいししてから右巻きしながら直立し、高木のウラジロカシに巻上がり、広く枝葉が繁茂して社殿の大半をおおっている。
 よって西側の田園よりよくその開花が眺められ、附近の農民は昔から田植時の花として親しみ、その花の多い時は豊作であると言い伝えられている。
    富山県教育委員会・入善町教育委員会

 ここを東側の山裾?段丘の崖下へ向かいましょう
 
 右手に駐車場がありますので利用させて頂きました

 境内入口?にも藤蔓が見受けられました

 北西向きに下山八幡社が鎮座します

 村社 八幡社の社號標です

 手水舎です

 左手(東側)には「八幡滝」の禊場のようです

 右手に「富山県指定天然記念物 下山八幡社の大藤と境内林」の標柱と説明版です
   所有者 八幡社
    大藤
 根周り2.78m、根元より1mの高さで2.219m、根元より3mの高さで1.9m。
 社殿の右後方下、斜面に生え根元より横臥して3mの高さで立上がり、紫藤の特長を示して右巻きしながら枝を分かち、ウラジロカシを中心として絡み付き繁茂して社叢の大半を被う。
 田植え時期の花と親しまれ、例年開花の多い年は豊作であると言い伝えられている。
    境内林
 黒部川扇状地の旧河岸段丘の浸食された断崖の脚部に出来た狭い付属段丘で、この大藤と共にウラジロカシ・シロダモ等の常緑林で、幅10m、奥行き54m程あり、黒部平野の開墾前の自然林の代表的なものである。

 *大藤の説明文は、西側の道路脇の説明版と同じものです
  また、安心しました標柱の所に枯れている木が目的の藤ではありませんね

 拝殿です

 本殿覆い屋です

 拝殿の右て(南側)から下へ降りて行けます

 金属製の藤棚が組まれています

 目的の大藤ですが、説明版に有ったほどの太さは無くなっていました

 南側から見ました

 東側にも藤が横たわって崖面の木々に絡み付いて登って行っています

 境内へ戻りましょう

 鳥居西側に五輪塔が並んでいます

 説明版です
   下山八幡社石塔群
 下山八幡社の神域と、北隣する現在池底になっているあたりは、古い寺院の跡と考えられる。
 中沢にある本龍寺の旧地といういい伝え、仏像をご神体とする現八幡社や小字名の「地蔵」、さらに、出土した多数の石塔類がそれを証する。
 石塔類は、現在のところ、南北朝時代の関東製青石塔婆(武蔵型板碑)1基、南北朝から室町時代中期にかけての五輪塔地輪7ケ、同水輪5ケ、同火輪11ケ、空風輪10ケ、それに室町時代後期の板石塔婆1基などである。
 寺院は西面しており、西からの参道があり、石塔は寺院のすぐ背後の松丘中腹に、南北に配列されていあっと考えられる。
 今後もまだまだ出土する可能性がある。
 青石塔婆には「キリーク」「サ」「サク」つまり弥陀三尊の種子が、五輪塔の水輪すべてに「バン」つまり金剛界大日の種子が、さらに室町時代後期の板石塔婆には、「ウーン」おそらく阿閦如来の種子が、それぞれあって内容は多様である。
 なお種子とは、古代インドの文字による仏菩薩のイニシャルをいう。

 *奥が深いですね~

 では、次へ行きましょう


 2024・4・11・10・20
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富山県入善町、小摺戸「小摺戸の大藤」(県指定)です!!

2024-04-21 06:30:14 | 巨樹・大木
 小摺戸地区は、入善町役場の南約5kmのところ

 入善町役場前の国道8号線入善黒部バイパスを南西に進みます

 約1kmの「上野(中)」信号を左(南南東)へ、県道327号新屋上野線です

 約2.3kmで北陸自動車道の高架を潜ります、更に約700で北陸新幹線の高架を潜り

 約1.6kmで県道が左にカーブするところを右(南西)へ入ります

 間も無く田圃の南側に島のように浮かんで北西向きに神明社が鎮座します

 西側から回り込む様にして、鳥居前に車を止める事が出来ました

 参道入口です

  村社 神明社の社號標です

 玉垣のそばに小摺戸の大藤の標柱と説明版です
   富山県指定天然記念物
     小摺戸の大藤
         昭和40年1月1日指定
 この神明社の社殿前左側に、見事な大きさの藤がある。
 数本の太い枝に分かれ、周りの木にからみつき、境内の中央に広く張り出している。
 樹高約10m、幹周り約3m、開花期は5月上中旬頃で、紫色の花を咲かせる。
 地元の地区では、開花期に合わせて「藤祭り」を行い、秋の豊作を祈っている。

 *楽しみですね、行ってみましょう

 手水舎です

 参道を進むと参道を跨ぐように藤棚が設置されています

 参道左手(北側)には太い根元の部分です
 
 西側から見上げました

 富山県天然記念物小摺戸宮の大藤の標柱です

 説明案内板です
  この大藤は県下でも屈指の大株で、根元の太さが2.73mあります。
  シナノキは蔓を巻き昔の黒部扇状地の、面影をしのばせます。・・・富山県

 中央の藤棚です

 西側の藤棚です

 南側から、元はシナノキに巻き付いていたのでしょう、現在は鉄の藤棚です

 中央部分です

 西側部分です

 南東側から見ました


 拝殿です

 本殿覆い屋です

 拝殿前から見ました

 左の建物は神楽殿ですね

 拝殿西側には力石でしょうか、そばの石碑には「盤持石」と有りました

   盤持石の由来
 遠い昔から昭和30年代の中頃までお宮のお祭りには多くの村人が集まる中で、力自慢の若者たちが、盤持(重量挙げ)と云う、力比べに使った石である。
 この石を肩まで担ぎあげ、観衆から万雷の喝采をうけた。数多くの物語り(ロマン)を秘めた由緒ある石なので、ここに保存することをとした。・・・とありました

 神明社跡の石碑です

 では、次へ行きましょう


 2024・4・11・10・10
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富山県入善町、一宿「一宿神明社のアカマツ」(保存木)です!!

2024-04-20 18:30:48 | 巨樹・大木
 一宿地区は、入善町役場の南約4kmのところ

 入善町役場前の国道8号線入善黒部バイパスを南西に進みます

 約1kmの「上野(中)」信号を左(南南東)へ、県道327号新屋上野線です

 約2.3kmで北陸自動車道の高架を潜ります、更に約700で北陸新幹線の高架手前を右(南西)へ高架沿いを進むと

 間も無く(約200m)新幹線の高架の南側に一宿神明神社が南西向きに鎮座します

 参道前に駐車スペースがありますので利用させて頂きました

 駐車スペースから北陸新幹線の高架を見上げました

 参道脇のシダレザクラは二分咲きです、高架の陰になっているので遅れているようです

 村社 神明社の社號標です

 鳥居です

 手水舎です


 拝殿前西側に目的のアカマツです、注連縄の巻かれた御神木です

 南側から見上げました、幹の最上部が切られてしまっています

 北側から見ました、幹の頂部を切られてしまっても、目通り幹囲は3.7mの大木です


 拝殿です

 本殿です、御祭神は天照大御神ですね

 参道の南側には「神殿跡」一宿神明社整備事業完工記念碑です

 *新幹線の工事と共に境内の整備が行われたようです。

 では、次へ行きましょう


 2024・4・11・9・50
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富山県入善町、青木「浄慶寺のクロマツ」(保存木)です!!

2024-04-20 06:59:20 | 巨樹・大木
 青木地区は、入善町役場の西南西約2kmのところ

 入善町役場前から国道8号線(入善黒部バイパス)を南西に進みます

 約2.4kmの「青木(東)」信号を鋭角に左(南東)へ入ります

 約600mの交差点を左(東)へ、また約100mで左(北)へ戻るように進むと

 まもなく浄慶寺の本堂の大きな屋根が見えて来ます

 手前の道路脇に車を止めさせて頂きました


 東向きの境内入口そばに目的のクロマツです

 北側から、奥(境内南東隅)に鐘楼が見えます

 根元に「入善町 保存木」の石柱です

 西側から

 南側から見ました


 本堂です、浄慶寺は真宗大谷派に属し、本尊は阿弥陀如来だそうです

 では、次へ行きましょう


 2024・4・11・9・40
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富山県入善町、上野「上原の丁松」(保存木)です!!

2024-04-19 19:17:54 | 巨樹・大木
 上野地区は、入善町役場の西約1kmのところ

 入善町役場南側の国道8号線を南西へ進みます、約400mの「入善東」信号を右(北西)へ

 約350mにお「上野」信号を左(西)へ、県道117号上飯野入善停車場線です

 道成りに約500mで左手に

 北西向き参道で上野神社が鎮座します

 直ぐ先信号そば左側に広い駐車場が在りますので利用させて頂きました

 村社 上野神社の社號標です

 手水舎です

 拝殿です

 本殿覆い屋です

 目的のマツは、県道117号線脇に立っています、上野神社鳥居前(東側)から見ました

 南がから、目通り幹囲3.4mの大木です

 根元に「入善町 指定保存木」の石柱です

 *丁松の名前の丁は町の略字で、長さの単位として約109mに成るそうです。
 山間の神社の奥宮や登山道にある丁(町)石と同じように、丁目毎に植えられた松だそうです。

 南東側から見ました


 マツの北側には、上原小学校跡に「学びのふる里」の大きな石碑です

 東側には「豊穣」の石碑です、そばのサクラも満開です

 *そばの説明石碑の文面です
 吾等の祖先が黒部扇状地の一角を開拓し、氾濫から守り継がれた沃野に圃場整備事業を施行、昭和46年着工以来7年の星霜を経て茲に完成を見る。
 見渡す限り大圃場に整備された美田を後世に伝えうる喜ぶ一人なり。
 事業の完成を記念し、この地に碑を建立して記録を留む。
     昭和52年10月

 他には、芥川賞作家・柏原兵三の小説『長い道』の文学碑があります。

 では、次へ行きましょう


 2024・4・11・9・30
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富山県朝日町、南保「清水寺のエドヒガン」(町指定)です!!

2024-04-19 06:48:26 | 
 南保地区は、朝日町役場の南南東約3kmのところ

 朝日町役場を東側の道路に出て南へ進みます、直ぐに北陸自動車道の高架を潜ります

 約500mでカーブミラーの所を斜め左(南東)へ入って東へ向かいます

 約600mで田圃の真ん中の一時停止交差点を右(南)へ

 約800mで北陸新幹線の高架を潜り、約400mの県道102号線との変形5差路の交差点を左(北)へ

 約200mで清水寺の青い案内板が有りますので右(東)へ坂道を上がって行きます


 清水寺の参道です

 道路脇に車を止めさせて頂きました

 大同山 清水寺の寺號標です

 *高野山真言宗 大同山 清水寺。本尊は、清水寺式千手千眼観世音菩薩(座像)の秘仏だそうです。
  
  京都清水寺のような七堂伽藍の揃った大きな寺でしたが、上杉謙信の越中攻略の際に、戦火に焼かれました。

  現在本堂の建つ場所は、米蔵のあった場所で焼き米が出てくると言います。(以上ネット清水寺ホームページから一部紹介)

 石段を上がります

 左手境内に鐘楼です

 南向きに本堂の様です

 本堂西側に、目的のサクラです

 南側から

 東側から、目通り幹囲5.5m、樹齢約500年の巨木です

 北東側から見上げました、花は満開を過ぎて散り始めでした


 境内端から南西側の眺めです、麓にもサクラがまだまだ咲いていました

 では、次へ行きましょう

 2024・4・11・9・05
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富山県朝日町、境「ヒスイ海岸オートキャンプ場駐車場のクロマツ」です!!

2024-04-18 18:36:26 | 巨樹・大木
 境地区は、朝日町役場の東北東約6kmのところ、その名の通り新潟県との境の地区、直ぐ東側が新潟県糸魚川市市振地区です

 朝日町役場の東側の道路を北へ出て「道下」信号を右(東)へ、国道8号線です

 道成りに約6kmで「境西」信号を左へ、「あいの風とやま鉄道」(旧JR北陸本線)の踏切を渡って直ぐ右(東)へ

 海岸堤防そばに広場がありますので車を止めさせて頂きました

 ここから海岸堤防(車も走れます)を歩いて行きました

 海岸沿いの東側を見ました

 北側です

 西側ですが、平日ということで誰もいませんでした

 約300m堤防の上を歩いて来ました、左手にクロマツが並んでいます

 東側の4本です

 東から3本目が目通り幹囲約3mの大木です

 西端のクロマツが目的の目通り幹囲3.5mのクロマツです

 北西側から見ました


 さらに西側のクロマツです

 北側から、こちらも目通り幹囲は3m程の大木です

 では、戻る次いでに海岸に降りてみました

 西側です

 東側です

 親不知に北アルプスが落ち込んでいるようです

 青黒く日本海に飛び出す辺りが親不知子不知の難所です、国道8号線が崖上をロックシェッドで通っています 

 では、次へ行ってみましょう


 2024・4・11・8・20
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新潟県糸魚川市、市振「海道の松と関所榎」(市指定)です!!

2024-04-18 06:32:01 | 巨樹・大木
 また地震の情報が入って来ました、昨夜遅くに豊後水道を震源とし、愛媛県と高知県の西部で震度6弱です。
 一部の道路や水道に被害が出ているようです、被害が大きくならないことを願うばかりです<m(__)m>

 市振地区は、糸魚川市役所の西南西約20km、糸魚川市役所青海事務所の西南西約14kmのところ、新潟県の西の端に当たります

 親不知から国道18号線を西へ進みます、約6.9kmで斜め右へ入ります

 海岸側(北側)の道路を進むと市振ジオサイト説明版です

 戻りました

 市振地区の東端です

 道路が左右に別れる場所に「海道の松」です

 説明版です
   市振・海道の松
海道の松(かいどうのまつ)
 北陸道市振宿の東端の街道脇にそびえていた老松。
 明治16年(1883年)の国道開通以前は、北陸道の旅人にとって「天険・親不知」の難所越えの終点であり、また、難所に向かう起点であった。
 そして、さらに松とその樹下は、一体のものとして神宿る場であり崇められ、旅の安全を願い、旅の安全に感謝する地でもあった(写真は先代海道の松)。
  昭和49年(1974年)4月16日  糸魚川市(旧青海町)の天然記念物に指定
  平成28年(2016年)10月5日  台風の影響により、東及び北方向に倒壊
 樹齢200年超の、在りし日の姿を再現するため、地元・市振地区の協力により、ここに海岸沿いの松を移植する。
    平成29年(2017年)10月29日
      新潟県 糸魚川市

 北側から見ました、まだまだ細い松ですが、大きく育っていただきたいものですね

 南側の道路を少し西へ進みます、井戸が在ります

 説明版です
   弘法の井戸
 昔、市振の村はずれの茶屋に坊さん(弘法大師)がきて「水がほしい」といったところ茶屋の婆さんは1kmも遠い赤崎のチビタミズ(冷たい清水)を汲んできたあげた。
 坊さんはこれをあわれんで足元の土をツエで三度突きこの井戸をつくったという。
   青海町観光協会

 水は見えませんでしたが、落ちない様に金網が設えて有りました

 さらに西へ約350mの右てに

 市振関所趾の石碑が建っています

 定め書きです
    定
 1、この関所に往還の輩番所の前にて笠頭巾をぬぐべし事
 1、乗物にて通る面々は乗物は番所の輩指図いたし女に見せて相通す事
 1、公家門跡方諸大名参向の節は前広よりその沙汰これあるべきの間改むべからず
   自然不審の儀あらば格別たるべき事
  右この旨相守るべき者なり
    天和3年12月
            奉り

 説明版です
   市振関所趾
 江戸時代初期徳川幕府は、重要な政策の一環として全国に53の関所を設け、街道行旅の人々を取り締まった。「市振の関」はその53関中重要23関の一つであった。
 親不知子不知の剣難の地を東方に控え、北陸道の於ける越中との国境の要衝として寛永(1624~)年代のはじめ幕府は高田城主松平光長に命じて、ここに関所を設けた。
    「関所関所で髪改める 娘十七髪解けん    今に伝えられる。
 この関所の特徴は行旅の人々の検問のための番所と、海上監視の遠見番所から成っていたことである。
 その敷地は集落の西方、東西に延びる街道を挟み、東西に21間、南北95間で面積は6反6畝15歩であった。
 その中に「番所」「上役長屋」「足軽長屋」「遠見番所」「井戸」等があり、また西門に近く「馬ノ足洗井戸」があった。
 なお、現存する市振小学校校庭内の榎は、関所敷地内にあったもので、昭和49年4月16日「関所榎」として青海町文化財に指定する。
    糸魚川市教育委員会


 すぐ西側に目的の「関所榎」です

 南側から


 説明版です
   糸魚川市指定文化財
    天然記念物 関所榎
 エノキはニレ科の落葉高木で、北海道から九州の各地に広く見られます。
 雌雄同株で4月から5月にかけて若葉と同時に小さな花を咲かせ、9月過ぎには球形で赤褐色の果実をつけます。
 エノキは古くから神の宿る樹と信じられ、境内、屋敷、村境などはもちろん、江戸時代には街道の一里塚などにも植えられ、旅人の目印や木陰となっていました。
 本樹は、樹高17.5m、目通り幹周り4.6mにおよび、樹齢推定250年以上とされる古い巨樹で、このエノキの生えている校庭にはかつて、北陸道の市振関所がありました。
 明治期に関所は撤廃されましたが、往時の北陸道と関所を今に伝える貴重な遺産です。
     昭和49年4月16日指定
     糸魚川市教育委員会

 東側から

 北側から

 西側から

 南西側から見ると、かなり傾いていました

 西暦2000年ミレニアム記念植樹の桜が満開です

 市振の海岸へ行ってみました

 西側です

 北側です、東側には散歩の人がいたので撮れませんでした

 では、次へ行きましょう
 

 2024・4・11・7・35
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新潟県糸魚川市、寺地「ラベンダービーチ」親不知「ビアパーク海岸」です!!

2024-04-17 18:48:53 | ドライブ
 ここからは2024年4月11日取材です

 前夜は、新潟県上越市名立区名立大町の「道の駅 うみてらす名立」に夜遅くに到着したので、仮眠して朝5時半過ぎから移動開始です

 寺地地区は、糸魚川市役所の西約6kmのところ、糸魚川市役所青海事務所の北東約1kmのところです

 又、親不知ビアパーク海岸は、糸魚川市青海事務所の西南西約6kmのところです

 まずは、ラベンダービーチへ行ってみます、糸魚川市青海事務所を北側に出て国道8号線を東へ進みます

 約300mで左(北)へ入って、海岸松林沿いを東へ進みます約300mで右手に駐車場が在ります

 案内板です
  小石が語る大地のはなし
 ツブツブ、しましま、ざらざら、ぼこぼこ、色もさまざま。
 石たちは、大昔から続く地球の活動によって生まれました。石のでき方によって表情が異なります。
   ・マグマが固まった石(火成岩)
   ・砂や泥などが積み重なってできた石(堆積岩)
   ・温度や圧力で変化した石(変成岩)
 石のでき方がわかると、大昔の糸魚川の様子までわかります。まるでタイムカプセルだね!
  
  *火成岩は、マグマが冷えて固まった岩石です。
   (玄武岩・安山岩・流紋岩・石英斑岩・ヒン岩・粗粒玄武岩・花崗岩・閃緑岩・はんれい岩・
  *堆積岩は、砂や泥などが海底でたまり、固まった岩石です。
   (凝灰岩・砂岩・泥岩・礫岩・チャート・石灰岩) 
  *変成岩は地下の深いところにある岩石が、熱や強い力を受けて新しくつくり変えられてできる岩石です。
   (変はんれい岩・結晶片岩・ロディン岩・曹長岩・ヒスイ・蛇紋岩)

 石拾いのマナー(ヒスイなど特徴的な小石を未来に伝えるためにマナーを守りましょう。)
 ①手のひらサイズより大きな石は持ち帰らない。
 ⓶石を観察したあとは浜に戻しましょう。
 ③ゴミは持ち帰りましょう。


 奴奈川姫像です

 公園を東側から

 歌碑です
 「沼名河之 底奈流玉 求而 得之 玉可毛 拾而 得之 玉可毛 安多良思吉 君之 老楽惜毛(万葉集・巻13)」
 「ぬな川の底にある美しい玉 私がやっと探し求めて手に入れた玉 やっと見つけて拾った玉 その玉のように大切なあなたが年をとってゆかれるのか 惜しまれてならない」・・・現代語訳ですね


 海岸に出て見ました、東側には車が止まっていて浜辺を歩く人がいます、ヒスイを探しているようです

 北側、波は穏やかです

 西側を見ました、まだ朝6時を過ぎたばかりです、出ている人は他にはいませんでした

 では、親不知海岸に行ってみましょう

 国道8号線を西へ約8kmです、「道の駅 親不知ピアパーク」の駐車場に入りました

 道の駅 親不知ピアパークのシンボル的ウミガメの像です

 すぐそばには「親不知高架橋完成記念」の碑です、昭和63年7月に高架橋が出来たようです

 親不知の北側海岸です、数名に方々は海釣をしているようです

 北側です

 西側の親不知漁港の防波堤近くでは、犬をつれた家族が石拾いをしていました

 車にもどると、若者達がウェダーを履いてヒスイ探しに海岸に降りて行くところでした、ヒスイが見つかると良いですね~

 では、次へ行きましょう

 2024・4・11・6・10
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埼玉県本庄市、小島「智方神社のケヤキ」です!!

2024-04-17 07:36:39 | 巨樹・大木
 小島地区は、本庄市役所の西北西約3kmのところ

 本庄市役所西側の駅前通りを北へ出ます、約500mの「本庄警察署入口」信号を左(西北西)へ国道17号線です

 約2.5kmの「万年寺」信号を右(北北東)へ入ります

 約200mを左(西北西)へ、また約100mの農業ビニールハウスの間を右へ入ります

 間も無く左手に鳥居が見えました、智方神社が東向きに鎮座します

 前の道路脇に車を止めさせて頂きました

 智方神社境内です、鳥居の後ろ側に大きな幹が見えました

 智方神社の社號標です

 東側から注連縄の巻かれた御神木です

 中心部は既に枯てしまっていて、幹が割れるのを防ぐためか「ガチャベルト」で締められています

 西側から、洞も金網で覆われています、目通り幹囲6.5mの巨木です

 南側から、上部の太い枝も伐り払われていました

 拝殿前から見ました

 拝殿です

 本殿覆い屋です

 説明版です
   第62回伊勢神宮式年遷宮記念
     智方神社 御由緒
          本庄市小島179
 ▢御縁起(歴史)
 聖護院門跡道興が、「廻国雑記」に綴る東国巡遊の旅に出て、北陸から上野国(現群馬県)を経て武蔵国に入り、「けふ爰に おしまか原を きてとへは わか松しまは 程そ遥けき」と詠んだのは、文明18年(1486)のことであった。
 この歌にある「おしまか原」と伝えられてきたのが、当社の鎮座する大字小島であり、その地名については、村が幾つかの川に囲まれ、島のような形であったことから起こったものであるとの口碑がある。
 当社の創建について、詳しいことは伝えられていないが、一説によれば、字万年寺の茂木家が下野の方から当地に移住して来た際に建立し、以来、同家の氏神として祀られていた社であるという。
 それが、村の発展に伴い、字全体で祀るようになっていったものと思われる。また、江戸時代には正一位の神階を受けたものらしく、本殿に安置されている白弊の弊串には「正一位智方大明神」と記されている。ちなみに、当社の祭神は天児屋根命である。
 「風土記稿」小島村の項ない、当社は「智方明神社 村民持」と載るが、古くはこの地内に万年寺という寺があり、その寺の持ちであったとする伝えもある。
 字の名称の起こりにもなっている万年寺については、「風土記稿」にも記載がなく、詳細はわからないのが残念であるが、当社と深い関係があったことが推測される。
 ▢御祭神と御神徳
 ・天児屋根命・・・・・家内安全・巣村繁栄
 ▢御祭日
 ・春祭り(4月2、3日) ・天王様(7月15日) ・大祓式(7月20日) ・秋の大祭(11月2,3日) ・奉告祭(12月5日)


 新築記念碑です
 当社の由緒については、「智方大明神」の御神名により、定かではないが、平将門の乱を鎮定した鎮守府将軍藤原秀郷の六男である、千方修理太夫を祀った社と考えられる。
 また藤原の租、天児屋根命を御祭神として奉斎し境内には樹齢7・8百年と伝えられるケヤキの御神木を有するところから、その創建の古さをうかがい知られる。
 当社は昔より安産の神として信仰され、氏子中ではお産で死する者無しと伝えられ、さらには、重病者がでると近隣者が快癒祈願のお百度を踏んだともいう。
 此様に氏子の心の支えとなり、親密な交流の場として慕われてきた鎮守の社「おちかた様」の社殿を、昨年10月に斎行された伊勢神宮第61回式年遷宮を奉祝記念とし建替えることとなり、氏子一同の協力のもとに無事竣工なったことは、祠職の身として無上の慶びと感ずるところであり、新築記念碑を刻し神人一和の悦びを後世に伝えるものである。
   平成6年5月吉日
      智方神社宮司 梅林 肇 謹文


 境内には石祠が並びます

 境内北西端に御嶽神社です

 御嶽神社遷座記念碑です
 六根清浄を願って信州は木曽御嶽の霊山登拝行とする御嶽信仰は、江戸中期の天明・寛政の時に盛んに信仰された。
 創建は定かではないが、ここ本庄、万年寺の地においても、木曽御嶽山登拝できぬ人々の遥拝所として、御嶽神社が奉斎され、毎年3月27日には氏子のみなが集まり参拝するのを恒例としてきた。
 しかし平成の新しき年を迎え、本庄市の進める都市計画に従って大字小島字林139の1番の奉斎地を離れ、この地の鎮守神である智方神社境内地に遷座奉斎することとなった。
 ここにその経緯と共に氏子名を記し、記念碑として後世に残す。
     平成2年9月吉日   智方神社宮司 梅林 肇

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埼玉県上里町、神保原町「柿の大木」(町指定)です!!

2024-04-16 18:31:32 | 巨樹・大木
 神保原町は、上里町役場の北約1kmのところ

 上里町役場の西側の道路を北東は進みます

 約400mでJR高崎線の踏切を越え、約400mでコンビニの先を左手前(南西)へ入ると

 左手に背の高い木が見えて来ます

 フェンスに囲われています

 「上里町指定文化財 カキの木」の標柱がフェンスの中に有ります

 手前(北側)の道路脇には「正一位柿木大明神」の石柱です

 東側から

 南側から目通り幹囲3.6mの大木です

 西側から、根元には大きな洞が出来ていて、フェンスの中には園芸資材が置かれています

 カキの木の南側に鳥居と
 
 手水舎に

 東向きで柿木稲荷です、狐の置物が並んでいました

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埼玉県上里町、藤木戸「藤木戸諏訪神社のケヤキ」です!!

2024-04-16 06:59:18 | 巨樹・大木
 藤木戸地区は、上里町役場の西南西約3kmのところ

 上里町役場の西側の道路を南西に向かいます、約600mで関越自動車道の高架を潜ります

 約900mで新幹線の高架を潜り、約1.1kmの「三町」信号を右(西)へ、県道23号線です

 約1kmで右(北)へ入ります、間も無く右手に「長幡小学校」が見えて来ます

 道路の西側に大きな木が見えます

 手前の道路脇に車を止めさせて頂きました

 道路脇の草むらが参道の様です

 庚申塔です

 水路を石橋で渡ります

 正面に社殿です

 説明版です
  第62回伊勢神宮式年遷宮記念
    諏訪神社 御由緒
           上里町藤木戸138
 ▢御縁起(歴史)
 藤木戸は、利根川支流の神流川右岸に位置する。地名の由来は、地内の観音堂に藤の古木があったためであるという。当社は村の中央に鎮座し、西隣には真言宗真福寺がある。
 「児玉郡誌」には「当社の創立は後花園天皇の御宇長禄年中(1457~60)当地に一社を勧請して本村の鎮守とす、其後社殿頽破せるを以て天正年間(1573~92)村民協力して再建せりと云う、また、明和年間(1764~72)に至り領主松平大和守の崇敬あり、社殿を再興せられたり(以下略)」と載せられている。
 また、本殿に奉安する木製の神璽には、「諏訪大明神社頭壹宇 維時文政二巳卯(1819)仲春廿七日鎮座 藤木戸・並木・新堀・沖惣氏子中 別当真福寺現住如海代」との墨書が見える。このうち、並木・新堀・沖は現在藤木戸村の小字名となっている。
 別当の真福寺は「風土記稿」藤木戸村の項に「新義真言宗、大御堂村吉祥院末、藤木山不動院と号す、本尊薬師」と載る。同寺は、大永年間(1521~28)の創建と伝わり、寺内には天文15年(1546)2月15日銘をもつ逆修五輪塔がある。
 当社は、明治初年の神仏分離により真福寺はら離れ、村社となった。明治39年には、字並木に鎮座する無各社日宮神社とその境内社である八幡社と菅原神社を合祀した。
 ▢御祭神
  ・武御名方命・・・・・五穀豊穣、厄除、開運
 ▢御祭日
  ・新年祭(1月3日) ・春祭り(4月3日) ・秋祭り(10月19日) ・新嘗祭(12月11日)

 右手にケヤキです

 南西側から、大きな傷が洞になっています

 南側から、目通り幹囲5.6mの巨木です

 東側から

 北側から見上げまし

 境内社が並びます、真ん中の祠は八坂神社のようです

 境内西側に鳥居が在ります、こちら側は裏参道のようでした

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埼玉県神川町、元阿保「阿保神社のケヤキ」です!!

2024-04-15 18:31:33 | 巨樹・大木
 ここからは、2024年4月9日取材分です

 元阿保地区は、神川町役場の北約2kmのところ

 神川町役場の南側の道路を西北西へ、約350mの信号を右(北東)へ、県道22号線です

 約1.2kmの信号を左(北北西)へ、児玉往還です

 約600mで道路左手に大きな木が見えて来ました

 手前の道路脇の広い所に車を止めさせて頂きました

 東向きの参道入口です

 指定村社阿保神社社號標です

 目的のケヤキです

 南側から

 手水舎です

 鳥居は横並びのように二つ有ります

 南西側から、目通り幹囲6.3mの巨木です

 西側から

 北側から見ました

 境内北側には「元阿保公会堂」です

 参道左手には神楽殿です

 拝殿前からケヤキを見ました

 拝殿です


 本殿覆い屋です

 説明版です


 社殿南側にもケヤキの大木です

 本殿西側の境内社です


 本殿北側の境内社です

 天照大神や蒼稲魂命の名前が彫られた石柱です

 大きな切り株が有りました

 公会堂側の駐車場脇には石祠が並びます

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東京都東久留米市、南沢3丁目 氷川神社「東久留米名木百選No.19クスノキ」です!!

2024-04-15 07:18:00 | 文化財・樹木
 南沢3丁目は、東久留米市役所の南西約700mのところ

 東久留米市役所の北側の「まろにえ富士見通り」を西南西へ進み、約200mの信号を左(南)へ

 約400m坂を下った落合川の毘沙門橋を渡って約50mで斜め右(南西)へ入ります

 約150mで「氷川神社」の案内表示が在りますので右(北)へ入ると

 氷川神社の鳥居が見えて来ます、幟旗が掲げられた氷川神社では祭礼が行われているようです

 鳥居脇の駐車スペースに車を止めさせて頂きました

 氷川神社社號標です

 参道石段を上がると右手に目的のクスノキが見えて来ました

 西側から

 「東久留米名木百選No.19クスノキ」のプレートです

 北北東側から

 東北東側から見上げました

 手水舎です

 拝殿です、中では祭礼が行われています

 本殿です

 本殿東側に本殿に向かう様に二柱の稲荷神社です
 
 *右の稲荷神社の御祭神は豊受大神(とようけおおかみ)で、左の稲荷神社の御祭神は宇賀魂神(うかのみたまのかみ)です。
 当地域において主に農地、屋敷を御守護頂く信仰があります。

 では、次へ行きましょう

 おまけです

 氷川神社の東側には南沢水辺公園が在ります


 早くもシャガが咲いていましたよ
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東京都東久留米市、本町4丁目南沢会館「東久留米名木百選No.75ヒノキアスナロ(別名ヒバ)」です!!

2024-04-14 18:32:00 | 文化財・樹木
 本町4丁目は、東久留米市役所の南側の地区です

 東久留米市役所の北側の「まろにえ富士見通り」を西南西へ進み、約200mの信号を左(南)へ

 約400m坂を下った落合川の毘沙門橋の手前の信号を左(東)へ、「多門寺通り」です

 間も無く左手に多門寺境内入口です

 東側の駐車場に車を止めさせて頂いたまま直ぐ西側の南沢会館前に在る「東久留米名木百選No.75ヒノキアスナロ(別名ヒバ)」を見にいきましょう

 西側の道路から目的のヒノキアスナロです

 北側から見ました

 「東久留米名木百選No.75ヒノキアスナロ(別名ヒバ)」のプレートです

 根元の標柱と説明版は「市指定旧跡 共立学校跡」です
   東久留米市指定文化財   本町4丁目13番
     共立学校跡 旧跡第2号
 共立学校は、明治18年(1885)10月、当時南沢673番地であったこの場所に開校した公立小学校です。
 前年、前沢に開校した成蹊学校の通学区域が東久留米の西側であったのに対し、共立学校は東側の南沢村・小山村・門前村・落合村・神山村・栗原新田などが通学区域でした。
 明治39年(1906)に成蹊学校と共立学校が合併して、前沢(現第一小学校の向かい側)に久留米尋常高等小学校の本校が開校し、当初の共立学校は東分教場として使用されました。
 当時は、校舎の前に2本の大きなヒバの木が校門のようにそびえ立っていたといわれ、この木がそのうちの1本です。
    久留米市教育委員会

 東側から見上げました

 *アスナロは、裸子植物マツ綱のヒノキ科アスナロ属に分類される唯一の現生種である、またはその基準変種である 。別変種として、「ヒノキアスナロ」がある。高木になる常緑針葉樹であり、小枝は十字対生するやや厚い鱗片状の葉によって扁平に覆われ、裏面に目立つ白色の気孔帯がある。"花期"は5月、球果は木質でその年の秋に熟し、基準変種では鱗片に明瞭な突起があるが、「ヒノキアスナロ」では突起が目立たない。冷温帯に生育する日本固有種であり、基準変種は本州、四国、九州、「ヒノキアスナロ」は北海道南部から本州北部に分布する。(ウィキペディア一部抜粋です)

 北側の建物が「南沢会館」です

 南沢会館前にはイチョウの大木も在りました

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