本町4丁目は、東久留米市役所の南側の地区です
東久留米市役所の北側の「まろにえ富士見通り」を西南西へ進み、約200mの信号を左(南)へ
約400m坂を下った落合川の毘沙門橋の手前の信号を左(東)へ、「多門寺通り」です
間も無く左手に
多門寺境内入口です、入口脇のソメイヨシノは満開です
東側の駐車場に車を止めさせて頂きました
西側の駐車場のソメイヨシノも満開の時期を迎えています
山門です
説明版です
東久留米市指定文化財 本町4丁目13番
多門寺山門
江戸時代の嘉永5年(1852) ごろの建立と考えられます。また、天保年間(1830~43)に材木を落合川に流して江戸に運び、獅子の彫刻を彫らせたとも伝えられています。
総欅造りの四脚門で、屋根は銅板葺。禅宗様を主とした折衷様で造られています。
控え柱(細い柱)上部の獅子鼻(獅子の形をした飾り)や妻(横側)の海老虹梁(中央が上に湾曲した梁)の彫刻はすばらしく、江戸時代末期における地方の建築技術の特色を示しています。また、柱の上部は二手先(二段組)の斗栱(凵の形をした組手)で大きな屋根を支えており、重厚な趣を感じさせます。
東久留米市教育委員会
山門を潜ると正面に大きな鉄筋コンクリート造りの本堂です
本堂前右手に弘法大師様です
石碑に縁起が彫られています
*真言宗智山派 宝塔山 吉祥院 多聞寺
当山は今を去る750年、元仁年間の草創にして、天満宮を安置して梅本坊と号したり。
凡そ100年の後、祐観上人止住するに及び毘沙門天を本尊とし宝塔山吉祥院多聞寺と寺号を改めたり。
天満宮は今尚本堂に祀られ学問の神として参詣者も多く、毘沙門天は七福神の一に加へられ、除災招福の功徳広大無辺なり。
尚当山は、武蔵野観音霊場第5番の札所
多摩四国八十八所第37番の札所
昭和51年7月吉祥日
建立者 南沢中 篠宮信由
当山第43世大僧正 憲隆代
左手に目的のシダレザクラです
本堂前(東側)から見ました
東久留米の名木百選のプレートです
南側から
西側から
北西側から見ました
六地蔵様です
観音堂でしょうか
お不動様(不動明王)のようです
では、次へ行きましょう
東久留米市役所の北側の「まろにえ富士見通り」を西南西へ進み、約200mの信号を左(南)へ
約400m坂を下った落合川の毘沙門橋の手前の信号を左(東)へ、「多門寺通り」です
間も無く左手に
多門寺境内入口です、入口脇のソメイヨシノは満開です
東側の駐車場に車を止めさせて頂きました
西側の駐車場のソメイヨシノも満開の時期を迎えています
山門です
説明版です
東久留米市指定文化財 本町4丁目13番
多門寺山門
江戸時代の嘉永5年(1852) ごろの建立と考えられます。また、天保年間(1830~43)に材木を落合川に流して江戸に運び、獅子の彫刻を彫らせたとも伝えられています。
総欅造りの四脚門で、屋根は銅板葺。禅宗様を主とした折衷様で造られています。
控え柱(細い柱)上部の獅子鼻(獅子の形をした飾り)や妻(横側)の海老虹梁(中央が上に湾曲した梁)の彫刻はすばらしく、江戸時代末期における地方の建築技術の特色を示しています。また、柱の上部は二手先(二段組)の斗栱(凵の形をした組手)で大きな屋根を支えており、重厚な趣を感じさせます。
東久留米市教育委員会
山門を潜ると正面に大きな鉄筋コンクリート造りの本堂です
本堂前右手に弘法大師様です
石碑に縁起が彫られています
*真言宗智山派 宝塔山 吉祥院 多聞寺
当山は今を去る750年、元仁年間の草創にして、天満宮を安置して梅本坊と号したり。
凡そ100年の後、祐観上人止住するに及び毘沙門天を本尊とし宝塔山吉祥院多聞寺と寺号を改めたり。
天満宮は今尚本堂に祀られ学問の神として参詣者も多く、毘沙門天は七福神の一に加へられ、除災招福の功徳広大無辺なり。
尚当山は、武蔵野観音霊場第5番の札所
多摩四国八十八所第37番の札所
昭和51年7月吉祥日
建立者 南沢中 篠宮信由
当山第43世大僧正 憲隆代
左手に目的のシダレザクラです
本堂前(東側)から見ました
東久留米の名木百選のプレートです
南側から
西側から
北西側から見ました
六地蔵様です
観音堂でしょうか
お不動様(不動明王)のようです
では、次へ行きましょう