ビーズうさぎのハナちゃんです!!

日々の生活、山登りや釣り、ドライブなどをアップします。ここの所、巨樹めぐりがメインですが!(汗)

岩手県奥州市、胆沢若柳愛宕「愛宕山神社の見当松」(市指定)です!!

2024-10-03 12:31:11 | 文化財・樹木
 胆沢若柳愛宕地区は、奥州市役所の西約14km、奥州市役所胆沢総合支所の西約7kmのところ

 奥州市役所胆沢総合支所の西側の県道176号線を北へ進みます

 約1.7kmで「⇐横手・岩淵・国道397号線」の標識に従って左(南西)へ

 約7kmで道路右手(北側)に

 愛宕山神社参道入口です

ここは、パワースポットです、すぐ先右側の駐車場に車を止めさせて頂きました

 赤鳥居です

 説明版です
   愛宕と愛宕社
 愛宕は、元々「愛宕原」と呼ばれ、松林と原野の広がる所でした。
 江戸時代を通して、ここは一軒の民家もなく、明治になって、いくつかの分教場を統合して、愛宕分教場(愛宕小学校の前身)が建設された頃から、ぽつぽつと民家が増加し始め、県道(現在の国道)を定期バスが走り始めると、この地域の中心地として「散居」の中の住宅密集地になり、現在に至っています。
 愛宕の地名は、「愛宕さま」と呼ぶ、この岩山の頂上に鎮座する「愛宕社」に由来します。
 昭和31年、増沢ダム建設に伴い、上衣川字増沢の愛宕社がここに合祀されました。
 「愛宕さま」は、火防、火伏や疫病除けの神様(権現様)として信仰されてきました。
 愛宕コミュニティーのシンボルとして、平成10年、現在の形に整備されました。
 参道口から三基の石碑が並んでいます。
 順に「馬頭観世音」「愛宕岩供養」「梵字(11字)」碑です。
        平成11年3月  胆沢町

 参道を進みます

 塚の様な岩積みの上に愛宕山神社の社が載っています

 下から見上げました社の後側に松の木が見えます

 愛宕山神社です

 目的の見当松です

 社右手から、目通り幹囲は3m弱(目測)でしょうか

 足場が悪いので退散しました

 では、次へ行きましょう

 

 
 2024・9・11・15・20
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岩手県金ケ崎町、永栄門前「永徳寺境内杉並木」(町指定)です!!

2024-10-03 06:40:36 | 巨樹・大木
 永栄門前地区は、金ケ崎町役場の南西約10kmのところ

 金ヶ崎町役場を東へ出て直ぐの交差点を右(南)へ、約300mで丁字路を右(西)へJR東北本線の踏切を渡ります

 約500mで東北自動車道の高架を潜って、約200mの「黒川せせらぎ公園⇐」の標識に従って斜め左(南西)へ

 道成りに約8.5kmで「永徳寺⇒」の案内板を右へ入ると

 正面東向きに永徳寺参道の山門です

 曹洞宗 

 永徳寺です

 参道は歩かれていないようです

 山門前を右へ上って境内東側の駐車場に入りましった

 説明版です
   報恩山 永徳寺
 延文元年(1356)道叟道愛禅師によって開かれた寺である。
 禅師は秋田生れで少年の頃出家し比叡山で修行された後、24歳で曹洞宗に入られた。
 教えを弘めるため観音様に願をかけたところ、夢の御告げがあり、「東北に行きこの剣のあるところに寺を建てれば教えがひろまる」と知らされた。
 そこで文和3年東奥に下り、黒石の正法寺にいた兄弟子「無底和尚」を授けているうち、胆沢川の川上でお告げの剣にめぐり合い、そこに寺を建てたといわれている。
 末寺の数は408ヶ寺といわれ、東北はもとより関東、静岡、新潟あたりまで末寺があった。
 後円融院の勅願となり、葛西晴信から寺窪一村の寄進を受け、東西12町、南北6町の境内には七堂伽藍が建ち、180余町歩に山林を所有し、本山総持寺の直末寺36門の一つである奥羽の本山として繁栄を極めた。
 しかしその後、二度火災にあったため壮大な跡はなく当時の仏像や境内の老杉に面影をしのぶばかりであります。
 この寺には重要文化財に値いする貴重なものがたくさんある。
 正法寺開山、無底和尚作の立像で浴室跌陀婆羅と当時4世南浦進珠和尚作の開祖の木像、その他数多くの仏像がある。
 古文書としては、正法眼蔵(15巻)、後円融院の勅願寺になさった書き付けの写し、葛西晴信の寄進状、石田三成、大谷刑部の禁制等がある。
      平成2年3月   金ヶ崎町観光協会

 駐車場から本堂前の参道へ戻って来ました

 六地蔵様です

 列石の真ん中に石碑と石祠です

 本堂は建て直されたばかりです

 石碑です
   永徳寺本堂落慶記念
 開山650年を記念して本堂を建て替えたいと住職が発願したのが平成12年であった。開山650年は、平成18年であったから、その6年前のことである。
 以来種々検討し、寺と檀家の末永い興隆を願って最終決定したのが平成15年、設計依頼が平成16年であった。
 この後、移築にともなう遺跡調査や住職と委員会の協議に時間を要し、請負業者決定が平成19年3月、着工は同年4月となった。
 総建設工事費は約2億円、完工は平成20年7月になったが、開山650年を記念する事業を落成をみたことは、関係者ひとしくこの上ない慶びとするところである。
 なお、200余戸の檀家一戸当たりの基本負担額は55万円で、末寺各寺からも多大のご協力をいただいた。
     平成21年9月12日 40世泰玄代
         永徳寺本堂建設委員会

 本堂裏側一段上の建物です

 ヒヨクヒバのようです

 さらに東側の建物です

 鐘楼です

 目的のスギは駐車場の更に北東側に12本のスギが並んでいる中にあります

 北側のスギです

 南側のスギです

 目的のスギは北側から4番目です

 南側から

 すぐ北西側(北側から3番目)のスギです

 説明版です
   金ヶ崎町指定天然記念物(1973年8月20日指定)
     永徳寺境内杉並木(11本)
 境内東側を画する12本のスギ並木の内11本が指定を受けている。
 最大木の樹高は25m、胸高周囲・直径は6.03m・1.90mある。樹齢は580年以上と推定される。
 古木の風格をそなえたこの並木に接すると、延文元年(1356)に創建された本寺の歴史について語りかけてくるように感じられる。
      金ヶ崎町教育委員会 

 西側から

 北側から

 離れて見上げました


 では、次へ行きましょう



 2024・9・11・13・55
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岩手県奥州市、胆沢若柳香取「明善寺のヒヨクヒバ」(市指定)です!!

2024-10-02 18:46:33 | 巨樹・大木
 胆沢若柳香取地区は、奥州市役所の西約8km、奥州市役所胆沢総合支所の北約3.5kmのところ

 奥州市役所胆沢総合支所西側の県道176号線を北へ、約1.9kmで「供養塚跡」前を過ぎます

 約1.5kmで一時停止の交差点を左(西)へ入ると

 直ぐ右手に明善寺の山門です

 「浄土真宗本願寺派」

 「修徳山 明善寺」です

 山門を入って駐車場に車を止めさせて頂きました

 境内入口には東向きに仁王門です

 仁王門を潜ると左手に鐘楼です

 右手に目的のヒヨクヒバです

 南東側から

 南側から
 *奥州市のホームページには
   明善寺のヒヨクヒバ
     指定年月日  平成元年(1989)12月26日
 ヒヨクヒバはサワラの栽培品種で、枝が開帳し、細枝が長く下垂して樹形が優れているので庭園に広く植栽されています。
 ヒバの仲間でこれほどの大木は他にはなく貴重です。
 樹高20m、根周8.01m、周囲3.73mの大木と記載されています

 本堂です

 本堂前から見ました

 では、次へ行きましょう




 2024・9・11・13・45
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岩手県奥州市、胆沢若柳相馬檀「供養塚跡のヤナギ」(元町指定)です!!

2024-10-02 12:30:23 | 巨樹・大木
 胆沢若柳相馬檀地区は、奥州市役所の西約7km、奥州市役所胆沢総合支所の北約2kmのところ

 奥州市役所胆沢総合支所の西側の県道176号線を北へ進みます

 約1.7kmで国道397号線を越えて

 約200mで道路交差点に島状になった供養塚です

 手前の道路脇に車を止めさせて頂きました

 赤い鳥居が有ります

 説明版です
    供養塚跡
 供養塚は安永風土記に記載されている経塚である。
 宝永年中(1704~1711年)、当時の肝入りであった三郎兵衛が施餓鬼供養のために一字一石供養法華経を埋めたところとして知られる。
 本来経塚は、経典保存の目的をもって平安時代中期の末法思想を反映して各地で築かれるようになったものですが、時代とともに変化し、極楽往生の祈願や追善供養を目的とするようになった。
 安永風土記によれば供養塚は、江戸時代における若柳地区の施餓鬼供養を目的として築かれた「塚」であることがわかる。
 本来の「塚」は、ここから東方約20mに3個の石碑が残っているところとされ、、供養塚の地名や伝説もこの「塚」にちなんで生まれたものである。
     昭和63年12月     胆沢町教育委員会

 北東側から目的のヤナギです

 北側から

 根元ですが、古い幹が根元から無くなっています

 *町指定天然記念物時代には、目通り幹囲5.7mの巨木でしたが、残念な状態になっています。
 *若いヒコバエが大きくなっていますので、太い幹に成長してくれるように願いました

 では、次へ行きましょう



 2024・9・11・13・35
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岩手県奥州市、南都田小十文字「小十文字のサイカチ」(市指定)です!!

2024-10-02 06:58:42 | 文化財・樹木
 南都田小十文字地区は、奥州市役所の西南西約7km、奥州市役所胆沢総合支所の直ぐ北側の地区です

 奥州市役所胆沢総合支所西側の県道176号線を北へ、約350m胆沢文化創造センターの先を右(東)へ入ると

 道路左手(北側)に大きな幹が見えて来ます

 手前の道路脇に車を止めさせて頂きました

 南西側から

 南側から、長屋門のある民家のブロック塀の隙間です

 幹を見ました

 根本に説明版です
   町指定天然記念物
     サイカチ
 樹齢200年以上の古木である。
 昭和30年代までは、町内あちこちの旧家の門口にそびえていたというが、現在ではわずかしか残っていない。
 サイカチの実は、セッケンが普及するまで、洗剤として貴重なものであった。
     平成10年3月   胆沢町
 *奥州市のホームページでは、幹径0.92m(幹囲2.9m)、樹高20m と記載されていますが、指定年月日が昭和57年7月7日 と古い(約40年前)指定時の規模と思われますので、3mは越えていそうですね

 南東側から

 では、次へ行きましょう



 2024・9・11・13・25
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岩手県奥州市、胆沢小山「前大畑のスギ(市指定)と峠のトウゲザサ群落」です!!

2024-10-01 18:40:45 | 巨樹・大木
 胆沢小山前大畑地区は、奥州市役所の南南西約7km、奥州市役所胆沢総合支所の南東約3kmのところ

 奥州市役所胆沢総合支所の西側の県道176号線を南へ進みます

 道成に3.5kmで「大畑振興会館」前で右(南)へ

 右手の住宅の敷地内に大きなスギが見えました


 住宅の西側に天然記念物標柱です、市のホームぺーにには「県下でも上位30位に値する巨木です。スギの巨木は神社仏閣境内に多く見られますが、個人の屋敷地内の巨木は少なく、江戸時代の屋敷林のありかたを示すものとして貴重です。
 幹径1.4m(幹囲4.4m)、樹高35m です。


 南西側から

 住宅の北側に大きな樹冠を見ることが出来ました

 北西側道路からスギのある屋敷林を見ました

 大畑地区から西北西に約1km戻って、県道236号線の「奥州市 胆沢区胆沢勤労者青少年ホーム」の北東側交差点を北へ入ります

 間も無く右手に説明版が見えて来ます

 道路脇に車を止めて、説明版を撮影しました
   中央地区のお宝 その3
     トウゲザサ
 トウゲザサは峠集落から発見されたもので、アズマザサに属します。
 その特徴は
 ・一節から2~3本枝が出ている。
 ・丈が高い。
 ・葉や節間などには毛がまったくない。
 1929年(昭和4年)牧野富太郎博士によりトウゲザサとして発見されました。
 トウゲザサは年々数が減少しており、今後の保護が大切になっております。
     2002年3月  中央地区コミュニティ振興協議会
 市のホームページには
  峠のトウゲダケ群落
     指定年月日 平成元年12月26日
トウゲダケは、地元では別名のトウゲザサの名で呼ばれ、アズマザサ属に分類されます。
 1928年ごろ佐々木喜一氏によって発見され、盛岡高等農林学校の内田繁太郎教授が牧野富太郎博士に示し、1929 年に発されました。
 本群落はトウゲダケの基準産地であり、貴重です。面積267.78㎡。
   と、記載されています。

 道路右手の藪の中に背の高いササが目立ちます

 もう一枚

 では、次へ行きましょう

 2024・9・11・13・20
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岩手県奥州市、水沢日高小路「日高神社」(重要文化財)です!!

2024-10-01 13:59:00 | 文化財・寺社
 水沢日高小路地区は、奥州市役所の南西約500mのところです

 奥州市役所東側の大手通りを南へ進みます、約300mの「武家屋敷駐車場」の直ぐ先を右(西)へ

 約500mで日高神社境内です

 北側に広い駐車場が有ります

 日高神社社號標です

 由緒書きです
   御由緒
 當社は未の妙見宮と尊崇之国土鎮護の神とす祭神は、天御中主大神を主神として7神を合祀す。
 人皇第52代 嵯峨帝 弘仁元年(810)奥州三所の一つとして勧請せらる。
 第70代 後冷泉帝 天喜年中(1053~1058)源頼義、義家親子、勅令を奉じて安倍貞任、同宗任を當地にて討つ決戦するや、俄かに浦然たる豪雨の為に陽光覆はれ、雌雄を決せんとするも日没の如くにして相見ゆること能はず、両公當社に至り神殿に弊を奉じて天候の快復せられしことを祈念す。
 時余にして豪雨も去り霧天散じて陽光燦として輝く、両公再び戈を交え斯にして大勝を得たり。時に未の刻なりこしより、未の妙見宮と云う。
 後、嘉應年間(1169~1171)に至り藤原秀衡公社殿を再建し、降って寛永元年(1624)伊達政宗公及び水澤城主留守宗利公共々に信仰篤く、社殿を改築す。
 明治4年(1871)膽澤(胆沢)総社として郷社に列せられ地方の崇敬殊・他篤く、偉人才子輩出の因なしたり。
 境内に瑞山神社在り、祭神は、奥州総奉行従4位左近将監伊澤四郎家景公並びに水澤城主宗利公及び代々の祖霊を祀る。
     祭日   日高火防祭  陰暦正月22日
          例祭     陽暦4月22日

 鳥居です

 ふるさと名所50景「日高神社と杜」です

 ここからが前回「日高神社の姥スギと大杉」の続きです


 日高神社は南向きに鎮座します、拝殿です

 本殿の屋根が見えました

 県指定有形文化財日高神社本殿の標石です

 国重要文化財日高神社本殿の標石です

 境内社です、大黒様が沢山並んでいます

 西側にも並びます

 説明版です
   御神徳と御由緒
 祭神 大山作神 中津島姫神
 例祭 毎年 4月2日
 五穀の神、酒の神、水の神、又、交通(海上)の神として尊ばれており、中津島姫命は弁才天として尊ばれています。
 生きるものをグヒグヒと伸ばす神として、京都の松尾大社(官弊大社)の分霊として大町橋の際に(高豊の西口のところ)お祀りしておりました。
     以上

 東向きに瑞山神社の鳥居です

 瑞山神社社殿です

 岩手県指定有形文化財 瑞山神社(祖霊社)の標石です

 説明版です
   瑞山神社と11人の殉死者
 日高神社境内にある瑞山神社は留守氏代々の祖霊社である。
 14世紀半ば、留守氏が高森城(仙台市岩切)に居たころ、岩切の志波彦神社境内に一社を建立し、初代伊沢家景以来の霊を祀り、保栄堂と称した。
 留守氏はその後遷城をくり返し、曲折を経て、寛永6年(1629)伊達氏家臣として水沢を所領し、このとき岩切から当地に保栄堂を遷し、先祖代々の祖霊社とした。これが瑞山神社である。
 領主は宗利で、水沢留守氏の初代である。社号「瑞山」は家景を瑞山公と称したことにちなむ。
 宗利は近世城下町、水沢のまちの基礎を築いた人として高く評価されているが、寛永15年(1638)8月15日に逝去、同社に納められた。
 同月28日、家臣8人が主君に従って殉死した。8人は死に先立つこと数日、決別の宴を催し、辞世の句を詠んで所感を述べたという。8人も同社に合祀されている。また宗利の勘気にふれ、他国にいた浪人3人も12月3日追殉死した。
 いま、同社の北、西、南にある五輪塔がこの墓である。
 瑞山神社は間口1間(1.21m)×奥行き1間(1.16m)、高さ2.5mの木造家形厨子で、同じく勾欄付き木造壇上に載る。屋根は入母屋造り、こけら葺き。全面に彩色を施し、黒漆と金泥を主としている。垂木の木口は装飾金具を付け。総体的に江戸時代初期の手法が見られ、昭和47年10月27日に岩手県指定有形文化財に指定されている。
 同社の南には2代宗直の墓がある。
        水沢市

 北側の五輪塔です

 西側の五輪塔です

 南側の五輪塔で、社殿の周りを囲んでいます

 太刀洗川戦場跡の石碑です

 氏子宮です

 筆塚と祠は稲荷社でしょうか

 では、次へ行きましょう




 2024・9・11・12・40
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岩手県奥州市、水沢日高小路「日高神社の姥スギと大杉」(市指定)です!!

2024-10-01 06:35:01 | 巨樹・大木
 水沢日高小路地区は、奥州市役所の南西約500mのところです

 奥州市役所東側の大手通りを南へ進みます、約300mの「武家屋敷駐車場」の直ぐ先を右(西)へ

 約500mで日高神社境内です

 北側に広い駐車場が有ります

 日高神社社號標です

 由緒書きです
   御由緒
 當社は未の妙見宮と尊崇之国土鎮護の神とす祭神は、天御中主大神を主神として7神を合祀す。
 人皇第52代 嵯峨帝 弘仁元年(810)奥州三所の一つとして勧請せらる。
 第70代 後冷泉帝 天喜年中(1053~1058)源頼義、義家親子、勅令を奉じて安倍貞任、同宗任を當地にて討つ決戦するや、俄かに浦然たる豪雨の為に陽光覆はれ、雌雄を決せんとするも日没の如くにして相見ゆること能はず、両公當社に至り神殿に弊を奉じて天候の快復せられしことを祈念す。
 時余にして豪雨も去り霧天散じて陽光燦として輝く、両公再び戈を交え斯にして大勝を得たり。時に未の刻なりこしより、未の妙見宮と云う。
 後、嘉應年間(1169~1171)に至り藤原秀衡公社殿を再建し、降って寛永元年(1624)伊達政宗公及び水澤城主留守宗利公共々に信仰篤く、社殿を改築す。
 明治4年(1871)膽澤(胆沢)総社として郷社に列せられ地方の崇敬殊・他篤く、偉人才子輩出の因なしたり。
 境内に瑞山神社在り、祭神は、奥州総奉行従4位左近将監伊澤四郎家景公並びに水澤城主宗利公及び代々の祖霊を祀る。
     祭日   日高火防祭  陰暦正月22日
          例祭     陽暦4月22日

 鳥居です

 ふるさと名所50景「日高神社と杜」です

 参道を進むと目的の姥杉です

 南東側から

 天然記念物標柱です

 南側から、目通り幹囲5.8mの巨木です

 南西側から、昭和32年(1957)に市の天然記念物に指定されています

 参道を西へ、右手に池があります

 さらに参道を進みます

 手水舎です

 参道は右に曲がり神門です

 拝殿前にもスギの大木です

 東側から、っ目通り幹囲5.5mの巨木です

 北側から、こちらも昭和47年(1972)に市指定天然記念物となっています

 長く成りましたので続きにさせて頂きます、次は「日高神社」境内を見て行きます


 
 2024・9・11・12・35
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