膝立観音山地区は、花巻市役所の西北西約7kmのところ
花巻市役所南西側の「花巻市役所前」信号を西へ、約250mで「花巻駅・県道103号線⇒」の標識に従って右(北北西)へ
約200mの信号を左(西)へ跨線橋で東北本線を越えます、約400mで信号を右(北北西)へ
約500mで信号を左(西お)へ、西大通です、約5.2kmで信号を右(北北東)へ、県道37号線です
約500mで左側に八坂神社の鳥居があります
鳥居の足(土台)には鳥居の貫上の額束にあった懸額が置かれています
八坂神社社號標です
円万寺観音堂寺号標です
鳥居を潜って西へ
頂上まで700m(標高差約100m)の参道(車道)つずら折りの坂道を上って行くと駐車場に入りました
境内案内図です
もう一枚は「円万寺観音山展望地鳥瞰図」です
新奥の細道の説明版です
湯治場のみち
このコースは、チベット学の権威多田等観の一燈庵がある円万寺観音堂を起点とする、全長11.2kmの自然歩道です。
大きな鳥居を抜け、整然として田園地帯を行くと、森林浴と川のせせらぎを満喫できる林道が始まります。
林道終点の別れ道で少し足をのばすと、縁結びなどで知られる金勢神社があります。
つづら折りの道を下り、豊沢川の渓流を渡ると、露天風呂で有名な大沢温泉があります。
約4時間の自然と語りあえるコースです。
神楽殿です
説明版です
岩手県指定無形民俗文化財
円万寺神楽
花巻に伝承されている神楽は、山岳信仰の基づく修験者集団によってもたらされた、山伏神楽がその主流をなしており、どの伝承経路から早池峰岳神楽系、円万寺神楽系、和賀大乗神楽系に大別される。
円万寺神楽は古くから、観音信仰を背景に栄えた湯口地区の円万寺(花巻市膝立字観音山)を拠点に、早池峰神楽、和賀大乗神楽とほぼ同時期に伝えられたとされている。
かつて修験者たちは毎年霞(縄張り)の村々を巡回し、悪魔払い、火伏の権現舞を行なったといい、現在、権現舞はもとより、式六番の舞、多数の狂言等を演目として伝承している。
また、北松斎公にまつわる伝承もあり、鳥谷崎神社祭礼で演じられるなど密接な関係がうかがわれる。
七拍子による繊細で優雅な舞振りを特徴とする格式ある神楽である。
◇演目(式六番)鳥舞・千歳翁舞・三番叟・八幡舞・山の神舞・岩戸舞・
鞍馬・天女・稲荷舞・五穀舞・鐘巻・三韓・蕨折・橋懸け・曽我・天王舞・権現舞・狂言数番
◇上演時期 地区神社祭礼・地区の祝事等
昭和36年7月 花巻市指定
昭和49年2月 岩手県指定 花巻市教育委員会
「染滝盥水」の手水舎です
八坂神社拝殿です
本殿です
説明版です
八坂神社
村社 膝立第一地割郷村社地鎮座
祭神 須佐男命
創立 大洞2年(807)3月17日
現在地は、元円満寺馬頭観世音境内にして、明治維新廃仏毀釈の際、本尊を山下の草堂に遷し、本社を矢川より奉遷し祭祀したるものにして、創立年月は即ち元円満寺観音の縁記によりたるものなり。
祖母杉之記社内のあり、以て其縁由を知り得べし。(大正7年刊 湯口村誌抜粋)
由緒 蝦夷征伐のためにこの地方にやってきた坂上田村麿が、大同2年(807)持仏の観音をまつったのが円万寺観音堂だといわれている。
廃仏毀釈のため、明治5年(1872)円万寺観音堂の本尊を山の麓の草堂に移し、観音堂にそれまで円万寺の矢川というところにあった八坂神社を奉遷し、部落の氏神として崇拝した。
廃仏毀釈もおさまったので本尊を観音堂に復させ、明治41年(1908)本殿、拝殿を新築し今日い至っている。(昭和41年花巻市教育委員会刊 花巻市史・神社篇抜粋篇)
観音堂
現在の観音堂は、嘉永4年(1851)の建造で、昭和38年(1963)の秋に萱葺き屋根を亜鉛メッキ銅版葺きに葺き替えをしていたが、40余年も経過し、各所が破損したので、平成17年(2005)6月全面葺き替えをして現在に至っている。
また、建造以来150余年経過して風雨にさらされた外部建具が損傷していたので、さる篤志家の寄進により、平成15年(2003)4月、全面新調された。
本尊
御本尊は、坂上田村麿が大洞2年(807)に勧請した馬頭観音で、近郷近在の人々の篤い信仰を集めていたが、明治初年に起きた廃仏毀釈の運動を避けて、太田の清水寺に移し匿ってもらった。
その後、廃仏毀釈の運動が終息してから、麓に草堂を建立し、明治12年(1879)7月14日に清水寺から御本尊を奉遷したと伝えられていた。
しかし、その後、いつの頃からか御本尊の所在が不明となっていた。
そのことを聞いた多田等観は、非常に悔しんでチベットのダライ・ラマ第13世法王か請来し、殊のほか大事にしていた千手千眼十一面観音像を昭和22年(1947)4月8日に観音堂の御本尊として寄贈奉安した。
また、平成4年(1992)9月13日には、八坂神社宮司の佐藤家が、同家に伝わる観音像を観音堂に遷座し、多田等観が寄贈の観音像とともに須弥壇に祀られている。
この佐藤家から遷座の観音像は、岩手県立博物館では銅造十一面観音座像懸仏で、室町時代(1392~1573)の制作であると説明している。
平成23年(2011)7月14日 八坂神社 観音堂
宝物庫の様です
説明版でです
花巻市指定有形文化財(歴史資料)
正慶の碑(正慶元年) 材質 安山岩 法量 高さ140cm、幅58cm
指定年月日 昭和35年5月7日
所在地 花巻市膝立字観音山 八坂神社境内
この碑は、正慶元年(1332)の紀年紀が刻まれた碑で、この地方の領主が戦死者供養のために建立したと推定されています。
碑面には、梵字や蓮華座が刻印され、彫りは雄渾で明瞭ですが、文字部分は彫りが浅く、風化が進み判読しにくくなっています。
明治の初め頃、八坂神社を矢河の地(現・花巻市円万寺矢川)から観音山の現在地に移した際に、この石碑も一緒に移したといわれ、もとは正慶2年の碑と同じ場所にあったものと考えられていっます。
正慶元年は北朝の年号で、南朝年号の元弘2年に当たり、当寺花巻地方では北朝の勢力が優勢であったことを示す一資料であり、また花巻地方にある古い石碑の一つです。
花巻市の歴史を知る上で手がかりとなる貴重な有形文化財です。
花巻市教育委員会
円万寺観音堂です
観世音碑です
阿弥陀堂です
鐘楼です
梵鐘です
説明版です
梵鐘と鐘楼
この梵鐘は、応仁の頃(1467~69年)円満寺にあった梵鐘が持ち去られた事蹟に基づいて、その復元と太平洋戦争までの戦没者の慰霊をしようとの遠大な目的で、昭和24(1949)年に多田等観が発願し、当時の湯口村民の賛同と近隣町村有志の浄財をも寄せられて新鋳された梵鐘です。
鍾銘の正面には、チベット文字とその下に漢字で、「観其音声皆得解脱」とあります。
これは観音経にあることばで、「この鐘の音を聞けば 皆安らかな境地に至りますよ」という意味です。
そして鍾銘の最後のところは漢詩で「余韻は嫋嫋として山川に散満す 萬霊は怳忽す 孰れか涅槃を疑はんや」と結んでいますが、この鐘の音は、正によろずの霊をして、とりとめなくうっとりさせてくれるよい音色です。
この鍾銘の撰文は、その往時、早稲田大学の漢字の教授であった川田瑞穂によるものですが、川田は昭和20(1945)年8月15日に玉音放送されて「終戦の詔書」草案にかかわったことで知られる有数の漢学者であります。
鐘楼は、昭和25(1950)年に地元円万寺、膝立の有志の献材と地元以外の奉仕者も加わって完成した鐘楼でありましたが、建築後47年の歳月が経つうちに柱の腐食が進みましたので、平成9(1997)年9月に円万寺、膝立地区民の賛同による浄財と多田等観の遺族に寄進等によって改築したものです。
平成9年9月 円万寺観音山を守る会
長く成りましたので続きにさせて頂きます、次は「円万観音堂の祖母杉」です
2024・9・12・10・40
花巻市役所南西側の「花巻市役所前」信号を西へ、約250mで「花巻駅・県道103号線⇒」の標識に従って右(北北西)へ
約200mの信号を左(西)へ跨線橋で東北本線を越えます、約400mで信号を右(北北西)へ
約500mで信号を左(西お)へ、西大通です、約5.2kmで信号を右(北北東)へ、県道37号線です
約500mで左側に八坂神社の鳥居があります
鳥居の足(土台)には鳥居の貫上の額束にあった懸額が置かれています
八坂神社社號標です
円万寺観音堂寺号標です
鳥居を潜って西へ
頂上まで700m(標高差約100m)の参道(車道)つずら折りの坂道を上って行くと駐車場に入りました
境内案内図です
もう一枚は「円万寺観音山展望地鳥瞰図」です
新奥の細道の説明版です
湯治場のみち
このコースは、チベット学の権威多田等観の一燈庵がある円万寺観音堂を起点とする、全長11.2kmの自然歩道です。
大きな鳥居を抜け、整然として田園地帯を行くと、森林浴と川のせせらぎを満喫できる林道が始まります。
林道終点の別れ道で少し足をのばすと、縁結びなどで知られる金勢神社があります。
つづら折りの道を下り、豊沢川の渓流を渡ると、露天風呂で有名な大沢温泉があります。
約4時間の自然と語りあえるコースです。
神楽殿です
説明版です
岩手県指定無形民俗文化財
円万寺神楽
花巻に伝承されている神楽は、山岳信仰の基づく修験者集団によってもたらされた、山伏神楽がその主流をなしており、どの伝承経路から早池峰岳神楽系、円万寺神楽系、和賀大乗神楽系に大別される。
円万寺神楽は古くから、観音信仰を背景に栄えた湯口地区の円万寺(花巻市膝立字観音山)を拠点に、早池峰神楽、和賀大乗神楽とほぼ同時期に伝えられたとされている。
かつて修験者たちは毎年霞(縄張り)の村々を巡回し、悪魔払い、火伏の権現舞を行なったといい、現在、権現舞はもとより、式六番の舞、多数の狂言等を演目として伝承している。
また、北松斎公にまつわる伝承もあり、鳥谷崎神社祭礼で演じられるなど密接な関係がうかがわれる。
七拍子による繊細で優雅な舞振りを特徴とする格式ある神楽である。
◇演目(式六番)鳥舞・千歳翁舞・三番叟・八幡舞・山の神舞・岩戸舞・
鞍馬・天女・稲荷舞・五穀舞・鐘巻・三韓・蕨折・橋懸け・曽我・天王舞・権現舞・狂言数番
◇上演時期 地区神社祭礼・地区の祝事等
昭和36年7月 花巻市指定
昭和49年2月 岩手県指定 花巻市教育委員会
「染滝盥水」の手水舎です
八坂神社拝殿です
本殿です
説明版です
八坂神社
村社 膝立第一地割郷村社地鎮座
祭神 須佐男命
創立 大洞2年(807)3月17日
現在地は、元円満寺馬頭観世音境内にして、明治維新廃仏毀釈の際、本尊を山下の草堂に遷し、本社を矢川より奉遷し祭祀したるものにして、創立年月は即ち元円満寺観音の縁記によりたるものなり。
祖母杉之記社内のあり、以て其縁由を知り得べし。(大正7年刊 湯口村誌抜粋)
由緒 蝦夷征伐のためにこの地方にやってきた坂上田村麿が、大同2年(807)持仏の観音をまつったのが円万寺観音堂だといわれている。
廃仏毀釈のため、明治5年(1872)円万寺観音堂の本尊を山の麓の草堂に移し、観音堂にそれまで円万寺の矢川というところにあった八坂神社を奉遷し、部落の氏神として崇拝した。
廃仏毀釈もおさまったので本尊を観音堂に復させ、明治41年(1908)本殿、拝殿を新築し今日い至っている。(昭和41年花巻市教育委員会刊 花巻市史・神社篇抜粋篇)
観音堂
現在の観音堂は、嘉永4年(1851)の建造で、昭和38年(1963)の秋に萱葺き屋根を亜鉛メッキ銅版葺きに葺き替えをしていたが、40余年も経過し、各所が破損したので、平成17年(2005)6月全面葺き替えをして現在に至っている。
また、建造以来150余年経過して風雨にさらされた外部建具が損傷していたので、さる篤志家の寄進により、平成15年(2003)4月、全面新調された。
本尊
御本尊は、坂上田村麿が大洞2年(807)に勧請した馬頭観音で、近郷近在の人々の篤い信仰を集めていたが、明治初年に起きた廃仏毀釈の運動を避けて、太田の清水寺に移し匿ってもらった。
その後、廃仏毀釈の運動が終息してから、麓に草堂を建立し、明治12年(1879)7月14日に清水寺から御本尊を奉遷したと伝えられていた。
しかし、その後、いつの頃からか御本尊の所在が不明となっていた。
そのことを聞いた多田等観は、非常に悔しんでチベットのダライ・ラマ第13世法王か請来し、殊のほか大事にしていた千手千眼十一面観音像を昭和22年(1947)4月8日に観音堂の御本尊として寄贈奉安した。
また、平成4年(1992)9月13日には、八坂神社宮司の佐藤家が、同家に伝わる観音像を観音堂に遷座し、多田等観が寄贈の観音像とともに須弥壇に祀られている。
この佐藤家から遷座の観音像は、岩手県立博物館では銅造十一面観音座像懸仏で、室町時代(1392~1573)の制作であると説明している。
平成23年(2011)7月14日 八坂神社 観音堂
宝物庫の様です
説明版でです
花巻市指定有形文化財(歴史資料)
正慶の碑(正慶元年) 材質 安山岩 法量 高さ140cm、幅58cm
指定年月日 昭和35年5月7日
所在地 花巻市膝立字観音山 八坂神社境内
この碑は、正慶元年(1332)の紀年紀が刻まれた碑で、この地方の領主が戦死者供養のために建立したと推定されています。
碑面には、梵字や蓮華座が刻印され、彫りは雄渾で明瞭ですが、文字部分は彫りが浅く、風化が進み判読しにくくなっています。
明治の初め頃、八坂神社を矢河の地(現・花巻市円万寺矢川)から観音山の現在地に移した際に、この石碑も一緒に移したといわれ、もとは正慶2年の碑と同じ場所にあったものと考えられていっます。
正慶元年は北朝の年号で、南朝年号の元弘2年に当たり、当寺花巻地方では北朝の勢力が優勢であったことを示す一資料であり、また花巻地方にある古い石碑の一つです。
花巻市の歴史を知る上で手がかりとなる貴重な有形文化財です。
花巻市教育委員会
円万寺観音堂です
観世音碑です
阿弥陀堂です
鐘楼です
梵鐘です
説明版です
梵鐘と鐘楼
この梵鐘は、応仁の頃(1467~69年)円満寺にあった梵鐘が持ち去られた事蹟に基づいて、その復元と太平洋戦争までの戦没者の慰霊をしようとの遠大な目的で、昭和24(1949)年に多田等観が発願し、当時の湯口村民の賛同と近隣町村有志の浄財をも寄せられて新鋳された梵鐘です。
鍾銘の正面には、チベット文字とその下に漢字で、「観其音声皆得解脱」とあります。
これは観音経にあることばで、「この鐘の音を聞けば 皆安らかな境地に至りますよ」という意味です。
そして鍾銘の最後のところは漢詩で「余韻は嫋嫋として山川に散満す 萬霊は怳忽す 孰れか涅槃を疑はんや」と結んでいますが、この鐘の音は、正によろずの霊をして、とりとめなくうっとりさせてくれるよい音色です。
この鍾銘の撰文は、その往時、早稲田大学の漢字の教授であった川田瑞穂によるものですが、川田は昭和20(1945)年8月15日に玉音放送されて「終戦の詔書」草案にかかわったことで知られる有数の漢学者であります。
鐘楼は、昭和25(1950)年に地元円万寺、膝立の有志の献材と地元以外の奉仕者も加わって完成した鐘楼でありましたが、建築後47年の歳月が経つうちに柱の腐食が進みましたので、平成9(1997)年9月に円万寺、膝立地区民の賛同による浄財と多田等観の遺族に寄進等によって改築したものです。
平成9年9月 円万寺観音山を守る会
長く成りましたので続きにさせて頂きます、次は「円万観音堂の祖母杉」です
2024・9・12・10・40