永栄門前地区は、金ケ崎町役場の南西約10kmのところ
金ヶ崎町役場を東へ出て直ぐの交差点を右(南)へ、約300mで丁字路を右(西)へJR東北本線の踏切を渡ります
約500mで東北自動車道の高架を潜って、約200mの「黒川せせらぎ公園⇐」の標識に従って斜め左(南西)へ
道成りに約8.5kmで「永徳寺⇒」の案内板を右へ入ると
正面東向きに永徳寺参道の山門です
曹洞宗
永徳寺です
参道は歩かれていないようです
山門前を右へ上って境内東側の
駐車場に入りましった
説明版です
報恩山 永徳寺
延文元年(1356)道叟道愛禅師によって開かれた寺である。
禅師は秋田生れで少年の頃出家し比叡山で修行された後、24歳で曹洞宗に入られた。
教えを弘めるため観音様に願をかけたところ、夢の御告げがあり、「東北に行きこの剣のあるところに寺を建てれば教えがひろまる」と知らされた。
そこで文和3年東奥に下り、黒石の正法寺にいた兄弟子「無底和尚」を授けているうち、胆沢川の川上でお告げの剣にめぐり合い、そこに寺を建てたといわれている。
末寺の数は408ヶ寺といわれ、東北はもとより関東、静岡、新潟あたりまで末寺があった。
後円融院の勅願となり、葛西晴信から寺窪一村の寄進を受け、東西12町、南北6町の境内には七堂伽藍が建ち、180余町歩に山林を所有し、本山総持寺の直末寺36門の一つである奥羽の本山として繁栄を極めた。
しかしその後、二度火災にあったため壮大な跡はなく当時の仏像や境内の老杉に面影をしのぶばかりであります。
この寺には重要文化財に値いする貴重なものがたくさんある。
正法寺開山、無底和尚作の立像で浴室跌陀婆羅と当時4世南浦進珠和尚作の開祖の木像、その他数多くの仏像がある。
古文書としては、正法眼蔵(15巻)、後円融院の勅願寺になさった書き付けの写し、葛西晴信の寄進状、石田三成、大谷刑部の禁制等がある。
平成2年3月 金ヶ崎町観光協会
駐車場から本堂前の参道へ戻って来ました
六地蔵様です
列石の真ん中に石碑と石祠です
本堂は建て直されたばかりです
石碑です
永徳寺本堂落慶記念
開山650年を記念して本堂を建て替えたいと住職が発願したのが平成12年であった。開山650年は、平成18年であったから、その6年前のことである。
以来種々検討し、寺と檀家の末永い興隆を願って最終決定したのが平成15年、設計依頼が平成16年であった。
この後、移築にともなう遺跡調査や住職と委員会の協議に時間を要し、請負業者決定が平成19年3月、着工は同年4月となった。
総建設工事費は約2億円、完工は平成20年7月になったが、開山650年を記念する事業を落成をみたことは、関係者ひとしくこの上ない慶びとするところである。
なお、200余戸の檀家一戸当たりの基本負担額は55万円で、末寺各寺からも多大のご協力をいただいた。
平成21年9月12日 40世泰玄代
永徳寺本堂建設委員会
本堂裏側一段上の建物です
ヒヨクヒバのようです
さらに東側の建物です
鐘楼です
目的のスギは駐車場の更に北東側に12本のスギが並んでいる中にあります
北側のスギです
南側のスギです
目的のスギは北側から4番目です
南側から
すぐ北西側(北側から3番目)のスギです
説明版です
金ヶ崎町指定天然記念物(1973年8月20日指定)
永徳寺境内杉並木(11本)
境内東側を画する12本のスギ並木の内11本が指定を受けている。
最大木の樹高は25m、胸高周囲・直径は6.03m・1.90mある。樹齢は580年以上と推定される。
古木の風格をそなえたこの並木に接すると、延文元年(1356)に創建された本寺の歴史について語りかけてくるように感じられる。
金ヶ崎町教育委員会
西側から
北側から
離れて見上げました
では、次へ行きましょう
2024・9・11・13・55