2021年12月23日、島根から神戸の帰路で立ち寄りました。
「江戸時代の宿場町として栄えた新庄宿は、古代はヤマトとイズモを結ぶ道でした。奈良時代は運脚の道であり、出雲国造の神賀詞奏上の道でした。1604(慶長9)年には、出雲街道に一里塚がつくられ、1646(慶安元)年には、播州境いの万能乢まで整備されて、この道を通る人々は増えていったのです。松江藩主が参勤交代で利用した本陣や脇本陣などが当時の様子を残しています。公儀諸役人や公家息女の輿入れの道でした。また、東参り(伊勢神宮)西参り(出雲大社)への旅人も通り、江戸と松江を結ぶ『七里飛脚』の通る回数も多かったのです。街道の両側に植えられた『がいせん桜』のトンネルは、1905(明治38)年に村会で議決されて植樹がされました。岡山県指定の町並み保存地区、国認定の歴史国道などです。」
岡山県新庄村
map
道の駅がいせん桜新庄宿
町並み
説明書
小川に鯉が泳いでいます。
脇本陣木代邸・新庄村有形文化財指定
「江戸時代末期の代表的な建物です。式台があり、見越しの格子、親子格子の出格子を取り付け、二階は大壁造りで、一階は真壁造り、腰はささらこ下見板張りという造りです。入り口の柱には、馬つなぎの環があり、トイレには今でも刀掛が残っています。」
雲州候本陣
「1635(寛永12)年に参勤交代がきまり、出雲街道をいつも通っていたのは、松江藩松平であった。1689(元禄2)年の文書によると、この町並みに御茶屋一軒あり、毎年昼休みされたという。佐藤家が松平子弟の『御茶屋』となったのは、1666(寛文6)年であり、その後の1757(宝暦7)年に『本陣』役の請負ができた。この頃から松平藩主は、昼休みだけでなく宿泊もするようになったのである。」
説明書
「国境いの山地の宿場、江戸末期には100軒ばかりの町並みとなった。問屋場、本陣、脇本陣、旅籠、諸店舗、製造業、諸職人、諸稼、農業などがあった。」
「江戸時代の宿場町として栄えた新庄宿は、古代はヤマトとイズモを結ぶ道でした。奈良時代は運脚の道であり、出雲国造の神賀詞奏上の道でした。1604(慶長9)年には、出雲街道に一里塚がつくられ、1646(慶安元)年には、播州境いの万能乢まで整備されて、この道を通る人々は増えていったのです。松江藩主が参勤交代で利用した本陣や脇本陣などが当時の様子を残しています。公儀諸役人や公家息女の輿入れの道でした。また、東参り(伊勢神宮)西参り(出雲大社)への旅人も通り、江戸と松江を結ぶ『七里飛脚』の通る回数も多かったのです。街道の両側に植えられた『がいせん桜』のトンネルは、1905(明治38)年に村会で議決されて植樹がされました。岡山県指定の町並み保存地区、国認定の歴史国道などです。」
岡山県新庄村
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道の駅がいせん桜新庄宿
町並み
説明書
小川に鯉が泳いでいます。
脇本陣木代邸・新庄村有形文化財指定
「江戸時代末期の代表的な建物です。式台があり、見越しの格子、親子格子の出格子を取り付け、二階は大壁造りで、一階は真壁造り、腰はささらこ下見板張りという造りです。入り口の柱には、馬つなぎの環があり、トイレには今でも刀掛が残っています。」
雲州候本陣
「1635(寛永12)年に参勤交代がきまり、出雲街道をいつも通っていたのは、松江藩松平であった。1689(元禄2)年の文書によると、この町並みに御茶屋一軒あり、毎年昼休みされたという。佐藤家が松平子弟の『御茶屋』となったのは、1666(寛文6)年であり、その後の1757(宝暦7)年に『本陣』役の請負ができた。この頃から松平藩主は、昼休みだけでなく宿泊もするようになったのである。」
説明書
「国境いの山地の宿場、江戸末期には100軒ばかりの町並みとなった。問屋場、本陣、脇本陣、旅籠、諸店舗、製造業、諸職人、諸稼、農業などがあった。」