2016年9月30日、お参りしました。最近は雨がよく降るので、天気の良い日ということで前日に天気を見ながら奈良観光に行きました。猿沢池南側にある「ならまちセンター」前のパーキングで駐車しました。こちらは平日で終日600円で、土日は2000円です。
ならまちセンターで「ならまち散策マップ」を入手
興福寺
国宝の三重塔は全国で13基、国宝の五重塔は11基で、共に有するのは興福寺のみです。寺内での2基の同時開扉も今回が初めてとなったので、今回の奈良散策は一番のお目当てです。拝観料は両塔で1000円です。
奈良市登大路町48
map
パンフレットより『奈良の大寺、興福寺は、699年に中臣鎌足(藤原鎌足)の病気平癒を祈願して山階寺を濫觴とし、飛鳥の厩坂寺を前身としています。藤原不比等によって平城遷都に伴なって現在の場所に移され、興福寺となりました。藤原氏の氏寺ですが、主要堂塔の建立の発願は天皇や皇后によるものが多数をしめます。これは藤原氏と朝廷との密接な関係を示すもので、造営工事も朝廷の直営で行われました。 奈良時代は、藤原氏の力が大きくなるにつれて興福寺も勢いを伸ばしました。平安時代には春日大社と一体化してその実権を握り、数多くの社寺をその末寺や末社とすることで大和国を支配しました。治承4年(1180)の平氏の焼き打ちで堂塔は全焼しましたが、ただちに復興にとりかかり再建されました。鎌倉時代に再建された北円堂と三重塔、室町時代に再建された東金堂と高さ50メートルを誇る五重塔など国宝の建物が建ち並び、国宝館や東金堂に安置されている優れた仏像の数々が、興福寺の歴史と栄華を物語っています。興福寺の宗派である法相宗は、インドで大成された「唯識」思想を継承して、中国の唐の時代に興されたものです。』
駐車場付近の道からの五重塔
猿沢池の非恋の釆女と衣掛柳の伝説
「奈良時代に帝に仕えていた釆女(うねめ)[後宮で帝の給仕をする女官の職名]が、帝のご寵愛が衰えたのを嘆いて猿沢池の池畔の柳に衣を掛け、入水してしまいました。池の東側に采女が身を投じる前に衣を掛けたという衣掛(きぬかけ)柳があります。」
九重石塔
猿沢池
『興福寺が行う「放生会」の放生池として、天平21年(749年)に造られた人工池です。放生会とは、万物の生命をいつくしみ、捕らえられた生き物を野に放つ宗教儀式です。』
五十ニ段の階段と五重塔
植桜楓之碑
築地塀
境内案内図
南円堂(重要文化財)
「江戸中期の寛保元年(1741)建立、八角円堂、一重、本瓦葺、正面拝所附属。」
石灯籠
露盤・宝珠
雨蓋瓦の獅子、逆立ちしていないですね。
鬼面瓦
三重塔(国宝)
「康治2年(1143)崇徳天皇の中宮皇嘉門院聖子が建て、治承4年(1180)に焼失後、間もなく再建されました。北円堂とともに興福寺で最古の建物で、木割が細く軽やかで優美な線をかもし出し、平安時代の建築様式を伝えています。」
北円堂(国宝)
「鎌倉前期の承元4年(1210)建立、八角円堂、一重、本瓦葺。」
中金堂
工事中のため、拝観出来ません。平成30年落慶予定
石敷
五重塔(国宝)
「天平2年(730)興福寺の創建者藤原不比等の娘光明皇后が建立。その後5回の焼失・再建をへて、応永33年(1426)頃再建された日本で2番目に高い塔です。三手先斗栱を用いた古様になりますが、中世的で豪快な手法も大胆に取り入れています。創建時の高さは45mで、当時日本でも高い塔でした。各層には水晶の小塔と経典が、また初層には四天柱の各方、つまり東に薬師浄土変、南に釈迦浄土変、西に阿弥陀浄土変、北に見六浄土変が安置されていました。現在は、初層に薬師三尊像、釈迦三尊像、阿弥陀三尊像、弥勒三尊像を安置。このように四仏を配置したのは、顕教における仏の曼茶羅風に配置したもので、貴重な事例です。」
東金堂(国宝)
「室町中期の応永22年(1415)桁行七間、梁間四間、一重、寄棟造、本瓦葺。」
興福寺本坊山門
大湯屋(重要文化財)
「室町中期の応永33年(1426)頃再建された考えられています。桁行四間、梁間四間、一重、西面入母屋造、東面切妻造、本瓦葺。」
案内図
自撮で鹿は?
不動明堂
ならまちセンターで「ならまち散策マップ」を入手
興福寺
国宝の三重塔は全国で13基、国宝の五重塔は11基で、共に有するのは興福寺のみです。寺内での2基の同時開扉も今回が初めてとなったので、今回の奈良散策は一番のお目当てです。拝観料は両塔で1000円です。
奈良市登大路町48
map
パンフレットより『奈良の大寺、興福寺は、699年に中臣鎌足(藤原鎌足)の病気平癒を祈願して山階寺を濫觴とし、飛鳥の厩坂寺を前身としています。藤原不比等によって平城遷都に伴なって現在の場所に移され、興福寺となりました。藤原氏の氏寺ですが、主要堂塔の建立の発願は天皇や皇后によるものが多数をしめます。これは藤原氏と朝廷との密接な関係を示すもので、造営工事も朝廷の直営で行われました。 奈良時代は、藤原氏の力が大きくなるにつれて興福寺も勢いを伸ばしました。平安時代には春日大社と一体化してその実権を握り、数多くの社寺をその末寺や末社とすることで大和国を支配しました。治承4年(1180)の平氏の焼き打ちで堂塔は全焼しましたが、ただちに復興にとりかかり再建されました。鎌倉時代に再建された北円堂と三重塔、室町時代に再建された東金堂と高さ50メートルを誇る五重塔など国宝の建物が建ち並び、国宝館や東金堂に安置されている優れた仏像の数々が、興福寺の歴史と栄華を物語っています。興福寺の宗派である法相宗は、インドで大成された「唯識」思想を継承して、中国の唐の時代に興されたものです。』
駐車場付近の道からの五重塔
猿沢池の非恋の釆女と衣掛柳の伝説
「奈良時代に帝に仕えていた釆女(うねめ)[後宮で帝の給仕をする女官の職名]が、帝のご寵愛が衰えたのを嘆いて猿沢池の池畔の柳に衣を掛け、入水してしまいました。池の東側に采女が身を投じる前に衣を掛けたという衣掛(きぬかけ)柳があります。」
九重石塔
猿沢池
『興福寺が行う「放生会」の放生池として、天平21年(749年)に造られた人工池です。放生会とは、万物の生命をいつくしみ、捕らえられた生き物を野に放つ宗教儀式です。』
五十ニ段の階段と五重塔
植桜楓之碑
築地塀
境内案内図
南円堂(重要文化財)
「江戸中期の寛保元年(1741)建立、八角円堂、一重、本瓦葺、正面拝所附属。」
石灯籠
露盤・宝珠
雨蓋瓦の獅子、逆立ちしていないですね。
鬼面瓦
三重塔(国宝)
「康治2年(1143)崇徳天皇の中宮皇嘉門院聖子が建て、治承4年(1180)に焼失後、間もなく再建されました。北円堂とともに興福寺で最古の建物で、木割が細く軽やかで優美な線をかもし出し、平安時代の建築様式を伝えています。」
北円堂(国宝)
「鎌倉前期の承元4年(1210)建立、八角円堂、一重、本瓦葺。」
中金堂
工事中のため、拝観出来ません。平成30年落慶予定
石敷
五重塔(国宝)
「天平2年(730)興福寺の創建者藤原不比等の娘光明皇后が建立。その後5回の焼失・再建をへて、応永33年(1426)頃再建された日本で2番目に高い塔です。三手先斗栱を用いた古様になりますが、中世的で豪快な手法も大胆に取り入れています。創建時の高さは45mで、当時日本でも高い塔でした。各層には水晶の小塔と経典が、また初層には四天柱の各方、つまり東に薬師浄土変、南に釈迦浄土変、西に阿弥陀浄土変、北に見六浄土変が安置されていました。現在は、初層に薬師三尊像、釈迦三尊像、阿弥陀三尊像、弥勒三尊像を安置。このように四仏を配置したのは、顕教における仏の曼茶羅風に配置したもので、貴重な事例です。」
東金堂(国宝)
「室町中期の応永22年(1415)桁行七間、梁間四間、一重、寄棟造、本瓦葺。」
興福寺本坊山門
大湯屋(重要文化財)
「室町中期の応永33年(1426)頃再建された考えられています。桁行四間、梁間四間、一重、西面入母屋造、東面切妻造、本瓦葺。」
案内図
自撮で鹿は?
不動明堂
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます