2024年12月22日、お参りしました。
説明書より「四国第81番霊場、別格本山、綾松山洞林院と号す。白峯寺は、山上伽藍としての堂宇と、崇徳上皇を祀る頓證寺殿などが一体となった、類い稀な伽藍を形成している。本堂などの諸堂は異なる形式と時代的特質をもち、客殿は藩主御成に応じるための格式を備え、頓證寺殿は稀有な構成と気品ある意匠とするなど、四国霊場の隆盛と上皇崇敬の様相をよく示している。高松藩により整えられたこれらの堂宇は、その形式や細部に地方的特色が顕著に認められるとともに、技量も優れており、価値が高い。江戸時代中期から後期にかけて建てられた複数の建造物が残る点も貴重であり、本堂など九棟が国の重要文化財として指定された。」
縁起書より「当山は弘法・智証両大師の開基である。弘法大師は、815(弘仁6)年当山に登られ、峯に如意宝珠を埋め閼伽井を掘られた。かの宝珠の地滝壺となり、三方に流れて増減なしと云う。次いで860(貞観2)年10月の頃、瀬戸の海上に流木が出現し、光明に輝き異香四周に薫したので、国司の耳に入りこれを当時入唐留学より帰朝して金倉寺に止住せられていた善知識円珍和尚に尋ねられた。和尚、かの瑞光に導かれて当山に登り、山中を巡検して居ると白髪の老翁が現れて曰く、『吾は此の山の地主神、和尚は正法弘通の聖者なり、この山は七佛法輪を転じ、慈尊入定の霊地なり。相供に佛堂を建て、佛法を興隆せん、かの流木は補陀洛山のいかだなり。』との御神託あり、なお流木を山中に引き入れて、千手観音の尊像を彫み、当寺の本尊として佛堂を創建せられた。その後、1156(保元元)年、保元の乱に因り、第75代崇徳天皇当国に御配流、山麓林田郷綾高遠の館(雲井御所)に三か年、のち府中鼓ケ丘木丸殿(木丸殿御所)に移り六か年、都合九年間配所の月日を過ごされて、1164(長寛2)年旧8月26日崩御遊ばされ、御遺詔によって当山稚児獄上(御陵のあるところ)に荼毘し、御陵が営まれた。」
香川県坂出市青海町2635
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案内図
白峯五社稲荷大明神社
山門(七棟門)
「高麗門形式の門の左右に二棟の塀をつらねた珍しい門で、その棟数合わせ七棟、故にこの門を七棟門と呼んでいます。左右から中央に積上げられた屋根の形は面白く白峯寺名物の一つです。19世紀初頭に建てられたものと考えられます。」
御成門
護摩堂
勅使門
宝物館
弁天堂
手水舎
玉章の木
狛犬
勅額門(重要文化財)
「門には、扁額として、1414(応永21)年、上皇の250年遠忌に際し、讃岐守護の細川満元の依頼をうけた将軍足利義持の執奏によって、後小松上皇が額字をしたためた勅額が掲げられていたため、この門を勅額門と呼んでいる。勅額門は、独創的な構成のほか、欄間に透かし彫りされた牡丹唐草や、妻面の木鼻に彫られた雲などの意匠が優れている。」
頓証寺殿
相模坊大権現
「白峯山の相模坊大権現様はかつて相模の国(神奈川県)の大山に君臨した修験の大行者でその名を相模坊と称した。後に讃岐の国、白峯山に入山し、当山の修験行者(山伏)集団の統括者(大先達)となり、その神通力、法力により行者集団から大権現として祭祀された。その無限大の法徳により、霊威にある聖地白峯山の守護神(鎮守)として崇め祀られた。崇徳天皇の守護神としても有名である。」
恵比寿天
西行
石灯籠(坂出市重要美術品)
鐘楼堂
薬師堂
福禄寿
行者堂
寿老人
阿弥陀堂(重要文化財)
「正面三間、側面二間、宝形造、本瓦葺で正側面に切目縁を廻す。内部は中敷居で内外陣に区分し、内陣後方に仏壇を造り、床は拭板敷、天井は棹縁天井とする。両脇間及び両側面前端間を連子窓とし、そのほかを堅板張とする。内部は赤色塗とし、外部の軸部に黒色塗、軒廻りに赤色塗痕跡が認められる。軒は一軒半繁垂木で、緩やかな反り増しをもつ垂木などに古式をとどめる。屋根頂部に陶製の露盤、宝珠を戴く。史料から1661(万治4)年に高松藩主松平頼重の寄進により建立され、境内最古の建造物である。内部中央に阿弥陀三尊立像を祀り、その後方に阿弥陀の小立像千体が安置されていることから、
されていることから、千体堂とも呼ばれる。」
布袋様
瑜祇塔
「瑜祇塔の正式名称は金剛峰楼閣瑜祇塔であり、金剛智三蔵訳の『金剛峰楼閣一切瑜祇伽瑜祇経」に基づいて建立されます。瑜祇経は密教の根本である金剛界と胎蔵界の両部は本来同一のものであるという精神を説いたもので、重要な経典の一津であります。古来より日本仏教は、伽藍建築様式を確立し各地に伽藍が建立されました。伽藍境内の最も特徴的な堂宇が多宝塔形式の塔(四角、六角、八角等の多角形の屋根を持つ建物又、三重、五重、七重、等の多層の屋根を持つ建物)であり、その多宝塔形式の原型とされるものが瑜祇塔で、古の形をインドのストゥーパー(塔)に求めることができます。当瑜祇塔は元三谷寺、法印圭應僧正、発願により1829(文政12)年、巳丑、仲春(陰暦2月)当山法印而住僧正代に建立された。
本堂(千手院観音堂)
「入母屋造りのこのお堂は本尊千手観音を祀る故に観音堂とも呼ばれ後嵯峨院の勅号により千手院とも称します。開基以来1382(弘和2)年、1539(天文8)年、天中年中、1596(慶長元)年等の数度の火災により焼失、現在の堂は1599(慶長4)年生駒近現公によって再建されたものです。本尊千手観音と智証大師と、当山鎮守白峯大権現の合作と伝えられ、脇侍として愛染明王、馬頭観音を祀っています。」
大師堂
「寶形造りのこのお堂は弘法大師尊像を祀る故に大師堂と呼ばれ、1811(文化8)年高松藩主松平頼儀公の再建されたお堂で大師を中央に左に稚児大師像、右に庚申の本地仏青面金剛が祀られています。」
廻向堂
仏足石
宝篋印塔
地蔵尊
水子地蔵尊
説明書より「四国第81番霊場、別格本山、綾松山洞林院と号す。白峯寺は、山上伽藍としての堂宇と、崇徳上皇を祀る頓證寺殿などが一体となった、類い稀な伽藍を形成している。本堂などの諸堂は異なる形式と時代的特質をもち、客殿は藩主御成に応じるための格式を備え、頓證寺殿は稀有な構成と気品ある意匠とするなど、四国霊場の隆盛と上皇崇敬の様相をよく示している。高松藩により整えられたこれらの堂宇は、その形式や細部に地方的特色が顕著に認められるとともに、技量も優れており、価値が高い。江戸時代中期から後期にかけて建てられた複数の建造物が残る点も貴重であり、本堂など九棟が国の重要文化財として指定された。」
縁起書より「当山は弘法・智証両大師の開基である。弘法大師は、815(弘仁6)年当山に登られ、峯に如意宝珠を埋め閼伽井を掘られた。かの宝珠の地滝壺となり、三方に流れて増減なしと云う。次いで860(貞観2)年10月の頃、瀬戸の海上に流木が出現し、光明に輝き異香四周に薫したので、国司の耳に入りこれを当時入唐留学より帰朝して金倉寺に止住せられていた善知識円珍和尚に尋ねられた。和尚、かの瑞光に導かれて当山に登り、山中を巡検して居ると白髪の老翁が現れて曰く、『吾は此の山の地主神、和尚は正法弘通の聖者なり、この山は七佛法輪を転じ、慈尊入定の霊地なり。相供に佛堂を建て、佛法を興隆せん、かの流木は補陀洛山のいかだなり。』との御神託あり、なお流木を山中に引き入れて、千手観音の尊像を彫み、当寺の本尊として佛堂を創建せられた。その後、1156(保元元)年、保元の乱に因り、第75代崇徳天皇当国に御配流、山麓林田郷綾高遠の館(雲井御所)に三か年、のち府中鼓ケ丘木丸殿(木丸殿御所)に移り六か年、都合九年間配所の月日を過ごされて、1164(長寛2)年旧8月26日崩御遊ばされ、御遺詔によって当山稚児獄上(御陵のあるところ)に荼毘し、御陵が営まれた。」
香川県坂出市青海町2635
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案内図
白峯五社稲荷大明神社
山門(七棟門)
「高麗門形式の門の左右に二棟の塀をつらねた珍しい門で、その棟数合わせ七棟、故にこの門を七棟門と呼んでいます。左右から中央に積上げられた屋根の形は面白く白峯寺名物の一つです。19世紀初頭に建てられたものと考えられます。」
御成門
護摩堂
勅使門
宝物館
弁天堂
手水舎
玉章の木
狛犬
勅額門(重要文化財)
「門には、扁額として、1414(応永21)年、上皇の250年遠忌に際し、讃岐守護の細川満元の依頼をうけた将軍足利義持の執奏によって、後小松上皇が額字をしたためた勅額が掲げられていたため、この門を勅額門と呼んでいる。勅額門は、独創的な構成のほか、欄間に透かし彫りされた牡丹唐草や、妻面の木鼻に彫られた雲などの意匠が優れている。」
頓証寺殿
相模坊大権現
「白峯山の相模坊大権現様はかつて相模の国(神奈川県)の大山に君臨した修験の大行者でその名を相模坊と称した。後に讃岐の国、白峯山に入山し、当山の修験行者(山伏)集団の統括者(大先達)となり、その神通力、法力により行者集団から大権現として祭祀された。その無限大の法徳により、霊威にある聖地白峯山の守護神(鎮守)として崇め祀られた。崇徳天皇の守護神としても有名である。」
恵比寿天
西行
石灯籠(坂出市重要美術品)
鐘楼堂
薬師堂
福禄寿
行者堂
寿老人
阿弥陀堂(重要文化財)
「正面三間、側面二間、宝形造、本瓦葺で正側面に切目縁を廻す。内部は中敷居で内外陣に区分し、内陣後方に仏壇を造り、床は拭板敷、天井は棹縁天井とする。両脇間及び両側面前端間を連子窓とし、そのほかを堅板張とする。内部は赤色塗とし、外部の軸部に黒色塗、軒廻りに赤色塗痕跡が認められる。軒は一軒半繁垂木で、緩やかな反り増しをもつ垂木などに古式をとどめる。屋根頂部に陶製の露盤、宝珠を戴く。史料から1661(万治4)年に高松藩主松平頼重の寄進により建立され、境内最古の建造物である。内部中央に阿弥陀三尊立像を祀り、その後方に阿弥陀の小立像千体が安置されていることから、
されていることから、千体堂とも呼ばれる。」
布袋様
瑜祇塔
「瑜祇塔の正式名称は金剛峰楼閣瑜祇塔であり、金剛智三蔵訳の『金剛峰楼閣一切瑜祇伽瑜祇経」に基づいて建立されます。瑜祇経は密教の根本である金剛界と胎蔵界の両部は本来同一のものであるという精神を説いたもので、重要な経典の一津であります。古来より日本仏教は、伽藍建築様式を確立し各地に伽藍が建立されました。伽藍境内の最も特徴的な堂宇が多宝塔形式の塔(四角、六角、八角等の多角形の屋根を持つ建物又、三重、五重、七重、等の多層の屋根を持つ建物)であり、その多宝塔形式の原型とされるものが瑜祇塔で、古の形をインドのストゥーパー(塔)に求めることができます。当瑜祇塔は元三谷寺、法印圭應僧正、発願により1829(文政12)年、巳丑、仲春(陰暦2月)当山法印而住僧正代に建立された。
本堂(千手院観音堂)
「入母屋造りのこのお堂は本尊千手観音を祀る故に観音堂とも呼ばれ後嵯峨院の勅号により千手院とも称します。開基以来1382(弘和2)年、1539(天文8)年、天中年中、1596(慶長元)年等の数度の火災により焼失、現在の堂は1599(慶長4)年生駒近現公によって再建されたものです。本尊千手観音と智証大師と、当山鎮守白峯大権現の合作と伝えられ、脇侍として愛染明王、馬頭観音を祀っています。」
大師堂
「寶形造りのこのお堂は弘法大師尊像を祀る故に大師堂と呼ばれ、1811(文化8)年高松藩主松平頼儀公の再建されたお堂で大師を中央に左に稚児大師像、右に庚申の本地仏青面金剛が祀られています。」
廻向堂
仏足石
宝篋印塔
地蔵尊
水子地蔵尊
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