2020年11月3日、お参りしました。山号を喜見山(きみいさん)と号す。真言宗高野派に属す。
説明書より「この寺の、本尊帝釈天は聖徳太子が自らお刻みになった尊像ですが、仏教排拆派により難波の海(大阪湾)に投げ込まれたものが676年(白鳳4年)に下浜枕ノ崎に漂着しました。地元の漁夫が救いあげ一堂を建立して安置して信仰をしました。午歳(うまのとし)のみに(十二年目)開扉される秘仏として伝えられています。その後、702年(大宝2年)に法相宗の開祖道照上人がこの地に来られ、自らの一刀三礼の厄除聖観世音菩薩像(国指定重要文化財)をお刻みになり帝釈天の脇仏としてお祀りになり一大道場を建立されたのがこの寺の創建とされています。室町時代初期には七堂伽藍を完備し一山寺院三十三坊を有する名刹となり隆盛を極めたといわれています。尚、当寺には町指定文化財の独鈷石や経筒もあります。又、庭園は蓬莱式を取り入れた準築山式枯山水庭園で、作庭は江戸初期と推定されています。」
兵庫県美方郡香美町香住区下浜599
map
寺表と枕石

枕石
由来「遠く六世紀末、我国では蘇我氏と物部氏との争いの中で、仏教を排拆する物部守屋によって渡来仏の多くが難波に投棄されたが、その一仏が不思議な漂流を経て当地に漂着し、地元村民によって救い上げられた。人々はその威厳に満ちた尊容に驚覚し、やがて一宇の御堂を建立して海上安全、五穀成就の守護神として敬い、信仰を深めていった。これが帝釈寺開山縁起である。この大長石は676年(白鳳4年)当山本尊が下の浜枕ケ崎、一ノ瀬に漂着された時、波打際で枕にして横たわっておられた縁深き浄石である。本尊と共に大多数の村民によって運び上げられものと伝えられている。」
全景

水掛地蔵

石碑

修行大師

鐘楼

本堂(兵庫県重要有形文化財)
「本堂は建設年代を示す史料がないが、建築技法から見て、再興された天文年間頃の16 世紀中期と考えられる。本堂は、正面五間、側面五間、宝形造、桟瓦葺。大規模な五間堂で、全体では約11m 四方のほぼ正方形の平面である。前側二間通りを外陣として、その後方の間口三間奥行二間を内陣、その両脇を一間幅の脇陣、背面一間通りは後戸とした中世仏堂形式の平面構成を持っている。」

浄聖殿



説明書より「この寺の、本尊帝釈天は聖徳太子が自らお刻みになった尊像ですが、仏教排拆派により難波の海(大阪湾)に投げ込まれたものが676年(白鳳4年)に下浜枕ノ崎に漂着しました。地元の漁夫が救いあげ一堂を建立して安置して信仰をしました。午歳(うまのとし)のみに(十二年目)開扉される秘仏として伝えられています。その後、702年(大宝2年)に法相宗の開祖道照上人がこの地に来られ、自らの一刀三礼の厄除聖観世音菩薩像(国指定重要文化財)をお刻みになり帝釈天の脇仏としてお祀りになり一大道場を建立されたのがこの寺の創建とされています。室町時代初期には七堂伽藍を完備し一山寺院三十三坊を有する名刹となり隆盛を極めたといわれています。尚、当寺には町指定文化財の独鈷石や経筒もあります。又、庭園は蓬莱式を取り入れた準築山式枯山水庭園で、作庭は江戸初期と推定されています。」
兵庫県美方郡香美町香住区下浜599
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寺表と枕石

枕石
由来「遠く六世紀末、我国では蘇我氏と物部氏との争いの中で、仏教を排拆する物部守屋によって渡来仏の多くが難波に投棄されたが、その一仏が不思議な漂流を経て当地に漂着し、地元村民によって救い上げられた。人々はその威厳に満ちた尊容に驚覚し、やがて一宇の御堂を建立して海上安全、五穀成就の守護神として敬い、信仰を深めていった。これが帝釈寺開山縁起である。この大長石は676年(白鳳4年)当山本尊が下の浜枕ケ崎、一ノ瀬に漂着された時、波打際で枕にして横たわっておられた縁深き浄石である。本尊と共に大多数の村民によって運び上げられものと伝えられている。」
全景

水掛地蔵

石碑

修行大師

鐘楼

本堂(兵庫県重要有形文化財)
「本堂は建設年代を示す史料がないが、建築技法から見て、再興された天文年間頃の16 世紀中期と考えられる。本堂は、正面五間、側面五間、宝形造、桟瓦葺。大規模な五間堂で、全体では約11m 四方のほぼ正方形の平面である。前側二間通りを外陣として、その後方の間口三間奥行二間を内陣、その両脇を一間幅の脇陣、背面一間通りは後戸とした中世仏堂形式の平面構成を持っている。」

浄聖殿



