2022年1月6日、お参りしました。
宝満寺
説明書より「『西摂大観』にある寺記及び古文書などによれば、宝満寺は808(大同3)年弘法大師が開創し、もと和田山の字寺山(現在の兵庫区和田山通付近)にあったが、1180(治承4)年平清盛が、福原内裏造築のとき現在地に移したと伝えられている。1184(寿永3)年源平による一の谷の合戦で伽藍の大部分を焼失したが、1266(文永3)年亀山天皇の勅命で法燈圓明国師によって、禅寺として再建されたという。また、1334から1336の建武年中には足利尊氏の崇敬を受け、伽藍の修復及び寺領を寄進されたことが見られる。1579(天正7)年荒木村重により寺禄を没収され、伽藍は焼き討ちに遭い衰退する。1945(昭和20)年、米軍による空襲で宝満寺は全焼し、寺史に関する文書資料は焼失するものの、大日如来坐像といくつかの寺宝は、境内の枯れ井戸に隠されていて被災を免れた。」
神戸市長田区東尻池町2-11-1
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寺標
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山門
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/27/48/bf23ffc7099a64f7a3229a71d6cd818f.jpg)
本堂、玄関
大日寺、真言宗御室派
説明書より「寺伝では、平安時代の1169(嘉応元)年、平清盛が和田岬の浜に僧侶1000余人を集めて大輪田泊(現在の兵庫港)と瀬戸内航路の海上安全の為に萬灯会を行った時に燈籠堂を建立し、法華経をお祀りしたのが当寺の始まりと伝わる。その年から春と秋の年2回、燈籠堂の浜にて千僧供養が行われていました。1172(承安2)年の春には後白河法皇が行幸され、阿弥陀如来をお祀りし千人の僧侶と読経し、この時に西行法師も参列し「きえぬべき法のひかりの灯(ともしび)をかかぐる和田の御崎(泊)なりけり」と詠っております。
1180(治承4)年に和田京を造営の折、清盛公が燈籠堂を寺とし、万代山安養寺と号す。その折、安徳天皇の玉帯安穏と国家安泰を祈るために一字金輪尊(大日如来)を祀り御願所となりました。
その後、源平の戦火で堂塔伽藍がすべて焼失しましたが、平家滅亡の後に平家一門の菩提を弔う為に建礼門院の発願で諸方より寄進を受け再建されました。
鎌倉時代に入り1285(弘安8)年8月には奈良西大寺の興正菩薩叡尊が来られて菩薩戒を972人に授け、遊女1700余人に持斎戒を授けられました。
南北朝時代の1336(建武3)年湊川の戦いの時、南朝方の大館左馬助氏明が兵3000を率い、燈籠堂南の浜を陣所にしました。
江戸時代の元和年間(1615~1623)和田岬より西尻池の当地に移った。万治の頃(1658頃)、当地方を治めた尼崎藩主青山幸利候が当寺に深く帰依され、候の死後、位牌が青山家より納められました。
元禄(1688~1703)以後、時代の変遷により衰退し住職不在で廃寺となり西尻池村の大日堂と呼ばれていました。本尊、什物、古文書等はすべて焼失し、本堂と青山候の位牌、鎌倉時代頃の作と伝えられている町石のみ残りました。
大正末期に純真和上が入寺され、名刹が廃寺の憂き目に遭っているのを嘆き、大日堂を和上の師の寺である播州朝日山大日堂の別院として自ら中興開山第一世となり大日寺と寺名を改め再建されました。太平洋戦争中、昭和19年の神戸空襲でも本堂は被害を免れ、被災者の救護所として利用されました。
平成18年に朝日山別院を返上し、旧に復して万代山と山号を戻して現在に至っております。」
神戸市長田区腕塚町1-1-26
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