ちゃんとブログを書こうと思いつつ、facebookの便利さについつい、facebookへのアップが多くなり、ブログが疎かになっています。アクセス数もグッと減ってしまってます・・・・。さっと感覚的にどこに居てもアップしてしまうfacebookに比べて、ちょっとは立ち止まりデスクにつき、振り返りつつ書き込むブログの方が、物事を整理しながら思考しつつ、文字をキーボードに打ち込むために10本の指先を動かすので、頭脳の活性化にもいいとは思っているのですが、なかなかそうもいかない。 結局、便利さに流されてしまうんだなあ。
思えば、我が世代は家電製品や通信機器の発達とその利便性がゆえの実利用の過程をリアルに体感しながら生きてきた。
家庭にテレビも洗濯機も冷蔵庫、車もない時代を知っている。文章を送るのは手書きの文通だった。この方が、たとえ10本の指を使ってタイピングするよりも、「感情」が文字ヅラに現れていたかもしれない。
家に初めてついた電話は、ダイアル式の黒電話だった。それが、プッシュホンになり、家の各室に受話器が置かれた。携帯電話も電池を使用した大きなトランシーバーのようなものや自動車電話と言われた代物も使ったことがある。 もちろん、ポケベルも使った。
事務所においては、Faxも仕事を始めた頃はなかった。小さな貿易会社にいた私の事務道具は、指のチカラで叩くタイプライターに海外との通信は、テレックスというものだった。 外国為替業務担当だった頃の為替収益を上げるための先もの買い計画はコンピューターなどないから、全て手計算をし、鉛筆で表に書き込んだ。(そろばんではなく電卓はありましたが) 「俺にわかる管理帳票を作れ」と社長に怒られ、その度に本当になくなく修正をした。
文章書きは、電動タイプライターからワープロになった。ワープロの画面は当初、本に挟む栞(しおり)みたいな小さな液晶画面だったが、徐々に大きくなり、そのたびに新しい機種を買った。 図面を海外と初めてFAXでやりとりしたときはびっくりしたなあ。もっと遡れば・・、小学生の頃のガリ版も体験的に知っているので、印刷機やコピーの進化も体感している。ガリ版などは制作時に失敗しないように集中力が必要だった。
子どもの頃はガスはあったが、ボイラーはなくて、風呂は薪を焚いた。祖母やおふくろが薪をつくり、薪をくべるかたわらにいた夕刻は実に豊かな空間だった。
大学生の頃のコンピューター演習で、円(○)を描くのが単位取得に必要だったが、それを描くために演算するコンピューターは大きな家ほどだった。今や、スマホの中にも入っているようなに小型になった。 驚くべき進化だ!!!!!!
朝の情報番組で、近い将来、携帯電話は体内に埋め込まれるかもしれないなんて紹介していた・・・。 電磁波が心配だが、人類は健康よりも便利さを求めるだろうなあ・・・。メガネにスマホとインターネット機能が埋め込まれる時代だから、ほんとかもしれないなあ。 いったいどこまで便利になるんだろうか・・・
うまく説明できないが、便利になるにつれて、一般人類の中から失われていったコトも間違いなくあるな・・・。
それは「時間」ではないだろうか。
便利になることによって、時間が増えたのではなくて、むしろ密度の濃い豊かな時間が減ったのかもしれない。
その失われた時間は実は人類にとってたいそう貴重なモノだったように思える。