孫が三人いる爺さんの私です。
車で1時間ほどの倶知安町に住んでいる私の次女一家なので、けっこう頻繁に実家に来てくれます。コロナで、特にやんちゃ盛りの男の子年中さんの幼稚園がたびたび休園になるので、「放牧」と昼食取りにやってきます。 末は孫娘でやっとというか、もう二歳半。 ちっとも懐いてくれなかったのですが、最近は「あそぼ」と、かまってくれるようになりました。 孫たちにはじいちゃんとは呼ばせずに私のキャンプネームのJETT(ジェット)と呼ばせていて、うえふたりはそうよんでいます。孫娘にもそう呼ばせようとはしているのですが、なかなか呼んでくれませんでした。
ところが今日は、「オジさん、あそぼ!」となぜかオジさん呼ばまり・・・・、なんでだ?
先日facebookに、玄関前に咲いたこの花の写真を投稿しました。青紫のこの花の名前はユキゲユリ(雪解百合)という和名がついていました。 そばに黄色いのもありました。さっそく「きいろの花もあるのですね」とコメントをもらいました。
しかし、よくよく観てみると、花弁の数が違う。 翌朝、まだ肌寒いときに観ると青紫は開いていましたが、黄色はつぼんでいました。 どうも別種のようです。
で、暖かくなってからまた観にゆき、黄色の花だけをスマホで撮影する同定アプリで検索すると、これはキバナノアマナでありました。 そういえば、寿都神社の境内にキバナノアマナの群落があるのを思い出しました。 あとでチェックに"行ってきまーす。
岩内ーニセコ間のパノラマラインが冬の通行止めが解除されたというのを聞き、ついでに春先の神仙沼でも寄ってゆこうかと思いたち来てみましたが、まだまだ木道は出ておらず、運動靴で来てしまったので、ひよって止めました。
DVDは福島原発ができるまで、そして震災後を描いたアニメでした。第二次世界大戦の広島原爆を体験した少年が大人になり福島で酪農をしているという設定でした。 終戦は私にとってはリアル体験ではありませんが、アメリカが南太平洋で原水爆実験を盛んにしていた頃、日本の漁船が被爆した事件は、私の幼少期だった。 雨が降ると、放射能があるから「頭がはげるぞ」外に出るなと親から言れたというリアル体験があり、なんだかわからないけれど放射能はこわいもんだと刷り込みがされた世代です。 このアニメではそんな場面もありましたが、若い人にはもうピンとこない創りだったんじゃないかな。 アメリカ合衆国は原爆を落とした側だからこそ、核の平和利用と称して日本に原子力発電所を造ろうとしたとの場面は「知らなかった」事実でした。 今や、アメリカの2大原発メーカーは、今や日本の東芝やらの傘下に入っています。 つまるところ、アメリカは原子力発電技術振興に資金の心配をせずに日本にやらせ、核発電の廃棄物であり、原子爆弾の材料となるプルトニウムまで日本に生産、在庫させる体制を作ったと私は理解しています。
首題と関係ないことばかり綴ってしまった。 もといの本題。。
私が居住している地名は、北海道寿都郡黒松内町字南作開といいます。ミナミサッカイと読みます。 北海道の地名の多くはアイヌ語起源と言われています。
寿都(すっつ)は、ニシン漁で栄えていた様子から寿の都と当て字したようにもみえますが、shuttuは、アイヌ語で植物の「葦ヨシがあるところ」それは河畔や河口の湿地帯にたくさん生えていて、家(チセ)の茅葺などに使われてその刈場としていたのでしょう。黒松内(くろまつない)は、針葉樹のクロマツから由来と勘違いされますが、これもアイヌ語由来で クル(アイヌでない人・・つまり和人)のマツ(女)が住むナイ(沢)が語源です。
では、作開(サッカイ)は?
我が地から寿都湾・海までは直線距離で4,5kmほどしかありません。その海はかつてはニシン漁が盛んで最盛期には道内内陸ばかりでなく本州からも数多くの出稼ぎ人が来て漁や加工品づくりをしていました。その多くの人口を養うために肥沃な川沿いの平地部を、漁師の親方一族が私財を投じて小作人を雇い農地化しました。幕末明治初頭には、会津を追われ岩手北部へ斗南藩となり、さらに北海道へ追いやれた武士残党が農業をして居着いたという話もあります。
なので・・、和人が土地を開いていったということで、「作開」は和名であると思っていました。
しかし、この時期になると、いつも感じる(前にも書いたこともありますが・・・)のですが、実はこれもアイヌ語起源ではないかと考えるようになりました。
数年前にアイヌ語を研究している方の話を聞いたのですが、地名の語源をさぐるときには、その漢字の今の読み方(発音)だけでなく、漢字を音読みや訓読みをすると元々のアイヌ語がみえてくるという話を聞きました。 その方法で読み解くと・・
作開(現在の読み方はサッカイ)ですが、サクヒラと読むと・・、Sakku(夏)、ヒラ→ピラ(崖)→ 夏に崖になるところ と解読ができるのでは?と思い当たりました。 写真を見てください。 当地を囲む山です。 雪が消えてくると黒い岩肌,崖が見事に現れてきます。 まさしく、夏に崖になるところです。
だから、Sakku-pira → さくひら →(漢字をあてて 作開) 本来はこう読むべきだったのですが、音読み変形してしまって、サッカイとなったと、私は考えています。
書き溜めた記事は、そのころ立ち上がっていた、このGoo Blogに移行してくださり、「日々公開 後悔 航海日記」と名付けて、それからずっと使っています。ブログを始めた第一世代なんだな、アタシは。知らんけど・・・
Spring has come!(春がやって来た! 現在完了形) この言葉が妙に好きだ。
子ども時代は、千葉や大阪で過ごした。本州の春は、いつのまにか日が長くなり「春がやって来た!」との実感がないまま桜が咲いて、気がつけば春だったような気がする。
北海道で山登りを始めたころの三月上旬、吹雪の山中で道産子の先輩が、「風が暖かくなってきたなあ」と、のんびりと言った。その側で、「この冷たさのいったいどこがあ!」と、さっぱり感じることができない自分がいたのを思いだす。あれからもう四十数回も冬を越した。北海道が好きだから、ずっーと、この地で暮らしてきた。
ところが、残念なことがある。それは、どんなに北海道が好きでも道産子になれないということ。いや、正確に言うと、認めてもらえない。なぜなら、この地で生まれていないからだと、妻子すら「父さんは違う」とのけ者にする。いつぞやは、「冬は嫌いではない。雪がたくさん降ると自分の本能のどこかが喜んでいる」というと、「それこそ、もっとも道産子らしからぬ発言だ」と、証拠にされてしまった。どうも、道産子は春を心待ちにするものらしい。
とはいえ、いつの頃からは、心の底から春を待っている自分を見つけることができるようになった。春は、三月になると風の中から、少しずつ確実にやってくる。風は、南の陽光からわずかな暖かさや花の香りを運んでくる。白組の雪の領地が減って土が見えてきて、雪溶けの土の上にフクジュソウの鮮やかな黄色の花を見つけると、たいそう嬉しい。
そんなことが体感できるようになるのに、二十年はかかったような気がする。山々はいまだ残雪多く木々の芽吹きもこれからだけれども……今年も確実に春がやって来た。うれしい!
黒松内町を南北に流れる朱太川は天然鮎釣りが盛んです。 琵琶湖から持ってくるのではなくて、産卵採取し孵化場でかえして放流する事業を地元河川漁協が実施しています。 なんでも琵琶湖産放流だと、友釣り(生き餌として鮎を使う)魚が大人しくて縄張り争いをしなくて、釣れないのだという話を聞いたことがありました。 そのため地元さんの野性味ある鮎を自ら育てて放流しているのです。
全国の鮎の香味会というものがあって、朱太川鮎は全国グランプリも獲得した名品であります。 その鮎の内蔵を取り除いて干したものをちょっと炙ってから日本酒(今回はなぜか山形?の初孫)につけて頂きました。岩魚の骨酒ほどではないですが、ほんのり風味がついて美味であった。 黒松内には地酒として「朱太川」という銘柄があるので、次はやっぱり、これを使わなければなあ・・。