高木晴光の 『田舎と都市との ・ 日々こうかい記』

「新田舎づくり」を個人ミッションとし、田舎と都市とを行き来する人生・仕事のこうかい(公開・後悔・航海)日記

東日本大震災

2025-03-12 10:59:43 | 日記

あれから14年。東北地方太平洋岸を襲った大津波。 あの時の前後を書き記しておこう。

3月11日は次女の結婚式がニセコであり、発災時はその会場の小さな教会の地下室で式の始まりを待っていました。そのためか揺れは感じませんでした。 式が終わり近くの昆布温泉にあるホテルにて披露宴が開かれました。 その途中から会場が徐々にい慌ただしくなり、携帯で情報を得る人が増えてきました。宴は中止されず夜となり親族の顔合わせ二次会などを滞りなく終えてホテルの部屋に戻ると、ニュースは被害報道一色になっていました。

当時、釜石出身の女性Jがぶなの森自然学校に居ました。研修生として1年過ごし、研修体験したことを活かせるような仕事があるから地元からは帰ってこいと呼びかけられていましたが、本人はまだ経験不足だともう1年の継続を希望している時でした。

翌日12日の昼前に自然学校に戻ると、スタッフ達はTVを囲んで報道番組にかじりついていました。しかし、彼女の郷里釜石の情報がなかなか流れません。リアス式海岸だから津波は止められたのかとも思いました(実は狭い湾には周辺の波が押し寄せてかえって高く強大になることをあとで知りましたが)

そして、夕刻だったでしょうか、釜石繁華街のアーケードに津波が押し寄せる映像が映し出されました。  青く言葉を失っている彼女を前にして、さあーてどうするかと暫し逡巡をしましたが・・・、

「彼女を連れてゆくしかない!!」と判断をし、ワゴン車に自然学校にあった食糧や毛布、やコンロ、テントの野営道具を積み込み、当時スタッフをしていた星山さんと彼女とました。 しかし、出発するにも津軽海峡のフェーリーが運行停止していると分かりました。 すぐに函館の仲間に再開フェーリーの乗船予約を取るように指示してともかくも出発をすることにしました。

函館港は本州に向かえないトラックで乗船前ヤードは満杯でした。夕刻だったか翌朝だったか、とにかく再開初のフェリーに乗り込みました。それも最後の一台で駐車デッキ二階に上がる坂の最上段に斜めに止めるというギリギリセーフでした。

たぶん13日の朝に青森上陸だったかと思います。三陸海岸にゆく高速道路や主要幹線道路はすでに公共関連の支援車両のみの通行規制が掛かっており、私達は下道の通行可能個所を縫うように進み遠野まで車をすすめました。ここでも釜石に抜ける幹線は通れず、笛吹峠という山道の選択しかありませんでした。道の駅で道路状況情報を集めると、「地震による土砂崩れの情報はわからないが、海岸側から通行してきた車はいるようだが、安全は保障できない」とのこと。

私達は通信障害でなかなかつながらない携帯電話でなんとか、札幌のNPOネオス本部に連絡を取り、(まさしく決死の覚悟だったなあ)笛吹峠道に突入しました。

道路状況は無事で、峠を越えて下りになると、早春ののどかな東北山間の集落があったりで、本当に沿岸部は大災害にあっているのかと想像もできませんでした。

そして、沿岸から数キロあたりでしょうか、状況は一変していました。 とある家の石垣の上と下で、様相が天国と地獄と思われるくらいに下は瓦礫の最終到達点、上はなんともない状態に愕然としました。 その日は被災に合わなかったJの親戚の軒先にテントを張り最初の拠点とさせてもらいました。

12日?いや13日の夜か・・、湿った雪が降ったのです。山を隔てた大槌周辺っで火災が起こり山火事もあったのですが、この雪で収まったように覚えています。私達のテントが押しつぶされるような重い雪でした。それから数日は星山さんとふたりでテント生活をしてまずは状況把握をしました。

Jの家は海岸近くでなかなかゆきつけなかったのですが、2日目いや3日目だったでしょうか瓦礫を縫って到達できましたが、土台石しか残っておらず、家ははるかかなたの谷あいに意外や2階の原型だけはとどめていたのでした。

4日目だったでしょうか、ねおす支援第二陣の上田さん等が到着。いつまでもJの親戚の庭先に居候しているわけにもいかず、支援拠点となりそうな使われていない元保育所にあたりをつけて、私と星山さんはいったん黒松内に返りました。その帰りのフェリーの中で福島原発の事故映像を観て驚愕しました。 あまりにも強烈な現場体験に精神も肉体もくたびれ果てて、玄関先に座った私を見て、カミさんは、「まるで、濡れ雑巾のようだ」と評したのでありました。

それから、1年ほど、NPOねおすあげての長いボランティア支援が始まりました。活動自主財源としてのNPOねおすへの寄付金は2千万はあった。スタッフ達もそれまでの各地域活動で得た実践力でほんとうによくやった。

写真は、確か3か所目のボランティア拠点の ちょっと内陸の橋野地区のこれも元保育園。

お隣でお世話になった地元の佐々木さんは最近お亡くなりになり、端の保育園も鳥越になる(なった)と聞きました。

当地、黒松内は、実は活断層があり、直下型地震発災の確率は東京近辺と同じくらい高いという・・・・。 全国各地で、まるで毎年のように大きな地震災害がある。避けられぬ自然災害とはいえ、もう大過ないことを祈るばかりである。

私も古希となり、万が一大災害が発災しても、もうかつてのようには動けないだろうが、頼りにある後進が育ったことを誇りに思っています。

 

 

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