自然学校周辺は天高く秋めいてきました。
自然学校周辺は天高く秋めいてきました。
孫娘1号は四才。 我が家から車で1時間半ほど離れた倶知安町にすんでおり、月に2,3度は親子でやってきます。お兄ちゃんがふたりいますが、長男坊はもう中学生で寄り付かなくなり、だいたい次男坊と母親の私の次女とやってきます。 かなりおしゃべりが上手になり、私がやり込められてしまうこともあります。
けっこう懐いてくれているので、私も楽しいのですが、体育館でボール遊び、ミミズサラダづくり、スキップ競争と・・・、手玉に取られている感もありまして、末恐ろしいのであります。 長男のところにも女の子が誕生しました。あと5年もすると両手で転がされてしまいかねないなあ・・。
2024年9月4日
日高二風谷を通るので、萱野茂資料館を訪れました。二風谷には国の補助も入った大きなアイヌ博物館がありますが、その国道をはさんだ向かい側に萱野さんの私設アイヌ民族資料館があります。 萱野さんとの出会いの思い出を綴っておきたいと思います。
初めてお会いしたのは、北海道自然学校NEOSの活動を始めた頃でしたから、2005前後でしたでしょうか・・。 その頃のアタシは対人コミュニケーション力不足に直面していました。 それをなんとかしようと思って、けっこういろいろなワークショップに参加していました。コスミックダンス(ダンスセラピー)、スウェットロッジ(ネイティブインディアンの儀式)、賢治の学校のサイコセラピー、ブリージングセラピー、地球交響曲・ガイアシンフォニーの自主上映会などなど・・、それはそれで、自己を開示し、他者とのコミュニケーション力をつけていったのですが、そんな流れの中で、アイヌ民族初の国会議員にもなった萱野茂さんの講演を聞く機会がありました。
たしか、北海道新聞社の本社ビルの大会議室だったと記憶しているのですが、会場満席で私は演壇の前から4,5席に座りました。 萱野さんが司会者の呼ばれ登壇してきました。そのとたんのオーラがすごかったなあ。圧倒される存在を感じました。 そして、まずはアイヌ語でユーカラを謡いはじめました。 もちろん、何を言っているかはわかりませんでしたが、その調べを聴いたとたん、背筋に電気がはしったようにゾクゾクと痺れて身体が震えて来ました。私の遺伝子に直接振動を与えるような共鳴感があり、涙腺が崩壊ししゃくり上げて泣きそうにもなり必死に堪えました。 そして、アイヌの男は先祖の名前を10数代まで覚えていると言い、「私は、○○の息子の△△の息子の・・・□□□の息子の●●●です」、ご自身のアイヌ語名を名乗られました。 それはそれは「いのちのつながり」を具体的に目にしたように衝撃的でした。
そんなことがあって、1年位過ぎた頃でしょうか、関西で1月に開催される環境教育の大きなフォーラムに萱野さんをゲストでお招きするにあたり、高齢な萱野さんの付き添いを誰か北海道からしてくれないかとの話があり、私は即座に立候補してそのお役目にあたりました。 2泊3日のカバン持ちです。同宿の和室に泊まり布団の上げ下ろしもしました。 それで、私を気に入ってくれたのでしょうか・・、 帰路千歳空港に到着する直前に、「たかぎくん、今晩、二風谷で言語収集をしている集落で新年会があるんだが、参加するかい」との誘いを頂きました。 もちろん、「行きます!!」と即答。迎えの車に乗ってついてゆきました。
山の中の大きな室内集会場で、6,70人はくだらぬ地元民が大きなひとつの宴席と作って集まりました。萱野エカシ(長老)を中心にその隣に萱野さんのご長男、その隣にアタシ。さらに私の隣には、もう立つのもやっとと見えるような枯れ木のようなお婆さん(フチ)という上座でした。新年会はなんてことはなく進みました。「樹木の和名をアイヌ語ではなんというのか」のクイズがあったり、日本歌謡のカラオケ大会が始まったりで、料理もアイヌ風のものもありましたが、日本のおせち料理の折弁当でした。ちょっと期待はずれだなあとも感じたのですが、
最後に・・・、祝いの歌と輪踊りを参加者全員ですることになりました。それも、「なんだかめんどくさいなあ・・」空気があってたいして盛り上がりにかけていたのですが、そのうちに周りの人が、「アンタが歌えや」と隣にいた枯れ木婆ちゃんをけしかけました。「あたしゃ、もういいぺっさ」とフチは断っていたのですが、若手婆ちゃんも「うたえ、うたえ」というもんですから、ついにそのフチが声をあげました。
ア~ゥエアイ、ア~エアイ~!!
それはそれはすごかった!! 大地の底から湧き出てくるような、いったいこの婆さんのどこからこんな声が現れるのか!! 一気に場は全員の足踏みも高まり、男衆の雄叫びも力強くなり盛り上がりは最高潮になったのでした。
萱野さんが私にささやきました。
「たかぎ、聴いたべ!! 観光地で演じ観せている踊りや唄とは違うべ!! これが本物のアイヌの輪踊りだ! 忘れんなよ」と。
アメリカネイティブインディアンの唄や さらにはどこかで聴いたことがあった北海道のかつての出稼ぎ漁師達・やん衆が網を引き上げるときに掛け声唄にも似ていました。 人間が自然と一体になる瞬間を味わった貴重な体験でした。
9月18日未明に長男に娘が誕生しました。次女のところに3人いるので、四人目の孫です。 嫁さんはネパール人なので、日本で産むのも不安だったろうと思いますが、倶知安町の厚生病院での出産でした。
さっそくMRKさんと対面しにゆきました。ガラス越しの初対面ですが、女の子です。 この娘が私と同じ年になるのは、なんと2094年。 そして順調に人生航海を続ければ、22世紀を生きるのだなと思うと感慨深い。
人類社会も地球環境も多難な時代になると思うと、心中穏やかではいられない・・・。しっかりと生き抜いて欲しいと願うばかりだ。
私としては、この娘が二十歳を迎える2044年まではがんばろう。つまり少なくても94歳だなと、自ら鼓舞しておる今日この頃であります。
あっ、名前はまだです。と、思って気づいたのだが、息子夫婦は夫婦別姓の戸籍をつくったんだろうか・・、
黒松内町、寿都町、島牧村にまたがる月越峠に大きなミズナラ巨木があります。 この発見は意外と新しく、2006年頃でしょうか、黒松内の森林管理署(旧営林署)に赴任していた松本管理官が見つけて、自然学校にも教えてくれて、それから積雪期にはよくお邪魔をしています。
私は勝手に「龍神のミズナラ」とよんでいます。
天然記念物の森である 黒松内歌才のブナ林にも これに匹敵するような巨木があったのですが、2010年頃の風台風来週の際に根元近い幹から折れてしまいました。
龍神のミズナラは、寿都町行政区域にあります。根本から数メートルのところから、普通のミズナラだったら幹サイズの枝が左右に伸びています。こちらも幹内部が腐れ初めていて弱くなっています。 そして、去年その太枝が折れてしまいました。 その後もうひと枝も折れたとの噂があり、関心をもってくれた寿都町のOさんと背丈を超える根曲がり竹の密藪を漕いで観察に行ってきました。 道路からは200mくらいの場所にあるのですが、夏はかなりの労力がいります。
やはり折れていました。 本体も腐食が進んでいるようにも見えますが、葉っぱは元気な様子です。 このまま朽ち果てさせるのも自然の流れという意見もあるようですが、周辺にはここまでの大木はありません。何百年も伐られすに残ってきたこのミズナラは、かつての豊かな森林に思いを馳せらる自然遺産だと思うのです。ぜひとも人の手をかけても保全保存する価値があるのではないかなあ。
場所は国有林なのですが、なんの銘木指定もないし・・・どーしたらいいのだろうか。
Oさんの力添えもあって寿都町議会で話題にあげることにはなりました。
夏の終りから毎年のように近隣小学5年生の宿泊体験学習を受け入れています。
1泊二日で以前は自然学校の旧教室であった宿泊室利用だったのですが、数年前に毒蛾事件があって(それは真夏であり、9-10月には影響はないんだがなあー)それ以来、町内の宿泊施設「自然の家」に泊まり、私たちはプログラムだけを担当するという形態になりました。
ところが、その当の自然の家がこの秋で閉鎖されてしまうことが決まりました。 うちは大部屋に雑魚寝(これは死語だな・・)ですが、自然の家は八人かな、ともかくベット室です。今時の子どもも雑魚寝経験があってもいいと思うんですが、快適性重視ということなんでしょう。(まっ、教師の方が好まないんじゃあないかと勘ぐっていますが・・・)
いずれにしても、来年度から黒松内に団体が泊まれる宿がうちの雑魚寝簡易宿泊施設しかなくなることは、交流人口誘客にたいそう痛手となるのであります・・・。 町の旅館は二件ありますが、これもお仕事関係者の宿泊でいつも満員なので、旅行者の宿泊も難しくなってしまう・・・。