覚書・・断捨離とは・・・、
ヨガの行法である断行(だんぎょう)・捨行(しゃぎょう)・離行(りぎょう)を組み合わせた言葉で、物への執着から離れ、自分自身で作り出している重荷からの開放を図り、身軽で快適な生活と人生を手に入れることが目的です。
覚書・・断捨離とは・・・、
ヨガの行法である断行(だんぎょう)・捨行(しゃぎょう)・離行(りぎょう)を組み合わせた言葉で、物への執着から離れ、自分自身で作り出している重荷からの開放を図り、身軽で快適な生活と人生を手に入れることが目的です。
私の言葉ではないが書きとどめておこう。
平成26年(2014)11月に文部科学大臣より中央教育新議会に、「初等中等教育における教育課程の在り方について」の諮問が出され、「アクティブ・ラーニング」が取り上げられた。 一般にはまだまだ馴染みのない言葉だろうが、教育者にとっては、最旬課題である。
この諮問の背景として、「今の子どもたちやこれから誕生する子どもたちが成人して社会を担う頃には、日本は厳しい時代での兆戦をよぎなくされる」「少子高齢社会、生産人口の減少、グローバル化の進展、人口知能の技術発展等により、社会構造や雇用環境は現在に比べて大きく変化する、それにより将来の就労、職業のあり方も現在とは相当に様変わりすることが指摘されている」「成熟社会を迎えた我が国が個人と社会の豊かさを追求してゆくためには、一人一人の多様性を原動力とし、新たな価値を生み出してゆくことが必要になる」といったことが言われている。
「こうした変化を乗り越え、伝統や文化に立脚し、高い志や意欲を持つ自立した人間として、他者と協働しながら価値の創造に挑み、未来を切り開いていく力を身に付ける」ことが求められており、そのための教育のあり方も変化変容が求めらている。 このような背景をもって、「何を教えるか」のみならず、「どのように学ぶか」という、学びの質や深まりを重視することが求められている。アクティブラーニング「主体的、対話的で深い学び」はこの主旨に合った教育手法として注目を集めている。
それは、ここ20年来、自然体験活動やまちづくりなどで、おこなわれてきたワークショップのさまざまな手法と共通するものである、主体的に対話的に学ぶためには、それらをある程度トレーニングされてきた人々が参画しないと成し得ない。その点、現代の大人たちは画一的な教育を施されてきたので概して苦手であると思う。
「学び方を学ぶ」というスローガンは、ねおす活動の創設期からの根底にもともと有り、「自主自律した人材の育成」「自分の暮らしと仕事を創れるひと」づくりは大きな目標としてきた。 やっと、時代が我々においついて来たなあと思わぬこともない。
この先にあるのは、「複雑系」の価値認識とその受容であると思う。
いかにこの複雑多様な社会を生き抜いてゆくか・・・。 自分が実践、経験してきたことをベースにしながらも、これからも「我々の活動がいかにあるべきか」を考え続け、実践をしてゆきたい。
我が歩む道は間違ってはいない、と思う。
ありとあらゆる省庁と言っていいくらいに、地域活性化の事例モデルをフレーム化した補助事業を作っている。
フレームを作れば補助金出すみたいな税金の使い方・・・。この傾向は今の政権下では強まるだろう。
しかし、ある地域活性化事業は「あるモデル」でしかない。
地域が元気になる公理や定理はあっても、解となる方程式は皆違うし、その方程式も永遠の公式とはならない・・・・。
明日は、太平洋静狩浜から日本海寿都湾への夏の40Kmウォークです。 秋は恒例ですが、夏の長期村では3年ぶりの開催です。 ベーシックコースで申し込みの子ども達は挑戦距離数は20KmでもOKなのですが、全体の志気が高く、全員が40Kmに挑戦です。
夜の注意事項、最終準備を始める前に、喝!!! 「きみ達は何者だぁ!?・・・・・、」
「そうだ、人類なのだぁ!」
「人類は、どこで誕生したか知っているかぁ!・・・・、そうだ、アフリカと言わている!」
「それが、何故にして、こんなにも世界に広がったのかぁ! 知ってるかぁ!!!」
「歩いたのだ!!」
「重たくなる頭脳を支えるために、手先を使うようになるために、バランスをとって二足歩行ができるようになったからだ」
「そして、我らが祖先は、歩いて新天地を探し、旅にでたのである!」
だから、「歩くということは、未来にとって人類にとって不可欠なことなのであ~~る」
「人類に与えられた 歩くという能力を持って、新たな挑戦をすべしぃ!!!!」
てな・・、小学生にはわかりにくいけれど・・・、 何か大切でありがたそうなことを言ってるようだな?
と感じさせる演説でした。
皆、頑張れ!!
いよいよ、本日より2014年、夏の長期体験村が開催されます。 ここ10日間近くは次々と合流してくる長期ボランティアさんや海外からの学生さん達、そして、チーフディレクターのふみぞうを中心とするコアスタッフ体制づくり、スタッフ全員のチームビルディングに傾注をしていました。
へたくそな英語とBody languageを駆使して,海外勢に「なぜ、やるんだ」と理念を伝え、酒を交わし、海に川へ行き、学校受け入れ事業ではプログラムデザインと実施をしてもらい、一緒に周辺整備をしながら過ごしました。一昨日の晩は、くたびれ果ててダウンしました。
ご覧の若者達の表情からわかるように、上々の仕上がりとなって来ております。子ども達を受け入れるモチベーションは高まっています。
そんな中で、昨日は英気を養うために学生・若者ボラは休息の一日でした。その午後に台湾の新竹教育大学から正式なインターンシップで来ているビビアンから、彼女の研究テーマでもある自然学校の自然体験型環境教育についてのインタビューを受けました。 質問は多岐に渡り、なかなか説明することが難しかったのですが、2時間以上、通訳役をかってくれた香港人学生のミッフィーを頼りに、いろいろな意見交換もできて私も感化されました。 特に、子どもと親の関係についての質問は、核心をつかれたようで、私も考えさせられました。
「この体験活動を通して、子どもを送り出した親にも変化や影響はあるか?」
私がこだわる自然体験型環境教育は、目の前にいるお子さんが対象なので・・・・、その手法や効果・影響についての、なぜ、どうして、という問いには、経験を重ねてきたので、それなりの論理性を持って答えることはできます。
しかし、親御さんについては、しっかりとアンケートをしたことがないので、はっきりしたことはわかりませんが、自然教育や環境問題に関心を深め、行動へ移されたお母さんもいらっしゃるとは思います・・・。
ビビアンの質問で思考を巡らし、そして、若いボランティア諸君と接し、さらに、今朝、私やぶな森のfacebookに書き込んでくれた何人かのコメントを読んで、はた!と気がつかされたことがありました。
「そだちば」事業という若者を対象とした活動を昨年からNPOねおすの事業として明確に位置づけています。これは、若者の社会的コミュニケーション力を高めること、自分の力で自分の暮らしと生活をつくることができる人になること・・・・が目指す人材像としているのですが・・・、
もっと、シンプルに考えると・・・どういうことなんだ???? (昨日のインタビューの応えで、このsimpleを連発していたアタシ)、
ロングキャンプは1999年から開始しました。以後、夏冬春と1ヶ月から1週間のキャンプを毎年継続しています。 今年はなんと、15回目の夏となりました。スタッフをしてくれた数多くの若者たちが黒松内ぶなの森自然学校を通過(卒業)してゆきました。初期の頃のスタッフは、すでに30代、40代に入っています。 それぞれが社会生活を営み、子育ても始めている連中も数多くなりました。
改めて、もう一度、冒頭の写真をご覧下さい。 今年の若者たちです。この写真の若者たちも、今日から目の前に現れる50名を超える子ども達と共に、そして、これから生まれる彼らの次世代の子ども達と未来を生きてゆきます。
子どもの面倒をみれない大人ばかりになったら・・・・、こりゃぁ、たいへんなことだ。
「大人になるためには、子どもの面倒をみれる(観る、看る、視る、診る)ようになることが大切なんだ!!」
「大人になるためには、子どもを成長させるように、できるようになることが、まず大切なんだ!!」
と、改めて、気づかされた朝です!!
すると、すでに大人になったらしい爺さんの役割とは何ぞや?
若者を大人にすることではないか??
それができなくして、爺さんとはなんぞや??? と 爺道を探求し始める予感がある、私の夏の長期村がスタートです。
開村ウエルカムパーティでは、怒髪天の「大人のススメ」を、子ども達が引いいてしまうくらいに、高らかに熱唱するつもりであります。
実は・・・、若者スタッフへのエールです。
♫ おとなは最高! おとなは最高! ぜんぜん楽勝! 恐るに足らず! 行こう! ♫
【昨年のブログから】
マズローの欲求の第六段階・・・・ 自己超越・・・。 う~~ん、人生還暦の課題だな。
マズローの欲求・・その6段階目
マズローの欲求段階説は、次の5段階が有名1.生理的欲求2.安全の欲求3.所属と愛の欲求4.承認(尊重)の欲求5.自己実現の欲求しかし、マズローは晩年、さらにもうひと...
その通り!!! 役割は作るものだ。すると・・・、降ってくるようにもなるものだ。震災支援をふりかえって(7) 役割は待っていても来ない。
◆役割は待っていてもやってこない。 災害支援は、被災直後は外から来た支援者だけの判断で行えることがある。しかし、事態が一旦鎮静化してからは、支援は一方的に行うのではなく、地域住...
人生のフラクタル論理・・・・。
このフラクタルを起こさせるためには、多様な関わりがなくてはならない。単質的な状況では、フラクタルは起こらない。
人生のフラクタル理論
最近、かなり共感、共鳴したことがあります。それは・・、 ジブリの宮崎駿監督のアニメの製作過程です。彼は、製作開始時に物語の結末を決めてないんだそうです。製作を始める時に...
情報や人、資金が、物流が国を越えてフラット化するグローバリゼーション(グローバル化)は止めようもない。一方では、地域:ローカリティは置き去りにされてゆく。グローバリズムの成否の指標は金だ。 儲かるか、儲からないかで決まる。 行き着くところまでゆくしかないだろう・・・。
経済が成り立ち、国が成り立つ、だから国民の生活がある・・というアベノミクスと経済・財界の考え方は一見、その通りのように見えるが、すべての一般国民が高度産業に従事できるわけではない。グローバリズムの経済は安い生産コストへシフトしてゆく。 つまり、新産業が起きないかぎりは、生産は安い人件費の国々にシフトされてゆく。 地域に利益還元をしていたあのトヨタでさえ、昨年、「コストが合わねば生産拠点を海外に今より移す」と社長が明言した。
一般国民(安倍首相曰く一般の人たち)には、どう考えてもかなり不利なことであるのに、なぜにして「みんな」が賛同してしまうのだろうか・・・。
強力なリーダーが欲しいのだ。その幻想を今の政権に求めているにしか過ぎない・・・・・
しかも、人口も減り続ける。この状況はしばらく続くだろう。 だからこそ、同時にグローバリズムに変わる、併行するでもよい、ポストグローバリズムについて、考え試行錯誤、顕在化するしかない。
地球の命は環境の変化に順応して遠い太古から育まれて来た。
その根源的な性質は、他に対しては開放性、内に対しては変化性のシステムにある。
命ある人間も同じだ。
社会環境に柔軟に対応できるチームやコミュニティに生命力を持たせるには、この二つの性質を獲得することが必要だ・・・
・・・・と、思いにふけるひとり事務所の午後