2022.3.20は、NPO活動の師、小林薫信さんの追悼フォーラムであった。 追悼は思いで話だけなく、小林さんの功績を偲んで「NPO・ほんものの協働を考える」というようなフォーラムもしようと、二部構成とした。 一部では私も登壇させて頂き御話をさせていただいた。 二部では会場からのひとことスピーチもした。コロナ禍ではあるが、リアル対面式の会場にはさまざまな活動分野の多数の方々が参加された。そのおひとりおひとりが、百人百様に思い出と感謝を述べられていて、今更ながらに小林さんの偉業を知ることができた。 私の追悼要旨は、せっかくなのでブログに残しておこう・・。以下・・・
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- チャンバラ剣志な小林さんに学んだ私・・。
ご紹介を頂きました、黒松内町にて廃校舎を利用して自然学校なる子ども向けの自然体験活動や大人向けの自然ツアーや研修活動をしている 黒松内ぶなの森自然学校の高木と申します。 5年ほど前までNPO法人ねおすを経営して、体験活動をする拠点づくりや関わる人材育成をやっていましたが、北海道各地に拠点ができて、それぞれの地域課題に向き合うことも多くなり、全体として統率していても経営リスクマネージメントがままならないので、5箇所をそれぞれ独立させてNPOねおすは解散して、私自身は現在、黒松内の自然学校の責任者をしております。というものの、実質的な経営権は次世代に委譲しているので、ここのところは半隠居状態でありますが・・、
1990年頃かな、子どもの自然体験活動と大人向けの登山・ネイチャーツアーを実施する任意団体北海道自然体験学校NEOSを立ちあげて活動を始めました。当時、阪神淡路大震災があり、その支援活動にさまざまな民間支援団体が被災地に入り活躍したのをひとつの大きな契機となりNPO法人に関わる法律が成立したという歴史だったと思います。
当時のNEOSはとある企業活動の一部門として存在していて、会社の都合もあり被災者支援には直接参画できませんでした。同時期に環境系映画「ガイアシンフォニー、地球交響曲」というドキュメント映画があって、その自主上映活動をしていましたので、その売り上げを自然体験活動の仲間たちが被災地で活動している拠点へ寄付しました。 一方で、NPO法人の法制化を目指す、北海道NPO推進会議が立ち上がりました。 当時、私は私自身の活動がNPO活動だとは思っていなかったのですが、その活動を見ていらっしゃったと思うのでうが、シアターキノの中島さんからお声がけがあり、その推進会議のミーティングに参加しました。
北12条あたりかな、炭労会館というのがあってその一室でした。 部屋に入ると、ちょっと暗いなかで10人くらいの人たちの視線がいっせいに刺さりました。ちょっとひよってしまって、「あっ、アタシが来るべきところではなかったぁ!失敗したぁ」と、正直思いました。
その奥の方から、ちょっといかつい私より先輩と思われるおじさんが「あっ、キタキタ、高木さんでしょ、ここに座んなさい」とお声をかけてくださったのが、小林さんでした。
それから会議にも参画し、NPOとはなんたるものかを小林さんや佐藤さん等諸先輩から学習して,あたしの活動もNPOなのだと確認、自己認識してゆき、法人制度が出来申請が始まった、初日に小林さんの提案で、サポセンと富良野演劇工房とねおすの三者で記者会見まで設定して全国でも一番早くNPO法人申請をしたのでした。
法人格を得たあとも、当時は若かったNPO経営者として、いろいろと事件・壁がありました。著作権侵害や食中毒騒動で訴えられそうになった時、「銀行で金が借りられず年が越せないNPO」と新聞ニュースになった時、年度末の理事の伸長規定が定款になくて、法人格取り消しになりそうだった時などなど、その時々に的確なアドバイスを頂きながら NPOねおすは生き延びられました。 ほんとうに感謝しています。
今日のフォーラムは「協働」を考えることがひとつのテーマだと思うのですが、協働は単に仲良く仕事をすることではないと思います。時にはパートナーとなる行政や他団体と激しく論議する必要があると思います。アイヌ語では「ちゃらんけ」、和人としては、「チャランバラ」をすることも大切です。 相手を致命傷になるほどに傷つけないが真剣に渡り合うことです。 この言葉を私もよく使って実際にしていましたが、チャンバラなる言葉と対処も小林さんから知ったのかもしれない・・。
私の世代は、いわゆる学生が中心となった社会闘争の弟世代です。私は千葉の出身で高校には過激な闘士がいると言われていた高校でした。入学当時は2年先輩には竹槍や火炎瓶をもって「成田空港建設反対の成田闘争」にでかけている先輩が大勢いました。私は山岳部だったのですが、その文化祭の展示テーマが「成田闘争」で、文化祭の時には部室には、野営をしたテントやらを展示しました。お兄ちゃん世代は、大学を封鎖し「新宿騒乱」なんて語り継がれる暴力デモなんかで、社会変革を目指して、ほんとうに若い命を落とす人もいた時代でした。 そのおかげで、それがひと段落した私ら弟格は、学生が集まらいように、高校の卒業式も大学の入学式も卒業式もない、管理教育の元で過ごしました。
一方のお兄ちゃん等は、社会人になると、社会改革なんて忘れてしまったように、高度成長時代をつっぱしり。あげくの果ては経済バブルを弾けさせて、失われた30年とも言われるような今の日本を作ってしまいました。
その中にあって、小林さんは同じく私のお兄ちゃん世代にも関わらずに、ずっーと、社会変革を目指して、真の市民社会の実現に向けて、もちろん暴力なしで邁進した方でした。
尊敬する兄貴格でありました。
ちょっといかつい感じもある兄貴でしたが、「人と人、組織と組織を紡ぎ」続けた人だと痛感、感謝します。
今、私はNPOは、それぞれの活動が自分の足元だけの蛸壺化していないか、もっと原点に帰って、「ヒトの幸せとは何か」といったそもそも論をすべきだと思っています。小林さんのように「死ぬまで」行動・活動はできないですが、今改めて、自分が何ができるかを考えるフォーラムと偲ぶ会になることを願っています。