2012.5.26(土)晴れ
上林清水村(現綾部市五津合町)には鋳物師(いもじ)の井関家の末裔がおられる。たたら跡もあり、鉄滓や古文書なども残されていると聴く。当主の井関先生に案内をして頂くべくアポイントを取っていたのだが、急逝されてかなわぬこととなっていた。縁あって今回たたら跡などを見せて頂くこととなった。
井関家の由来などについては綾部史談第97号、99号に村上真澄氏が書いておられる。井関家の先祖は和歌山の出身で、元和3年(1617)に清水村に来住とある。
正徳4年(1714)に井関伝助、井関八左衛門に対し真継家の許状が出ており、操業はそれ以前だろうと思われる。
わたしの目的の一つは、上林川念道橋周辺で採取した鉄滓が井関家のたたらから出たものではないかということを確かめたいこと、そして今ひとつはなぜ井関家が上林の地で鋳物師の生業を始めたか知りたかったことである。
東をのぞむ、田んぼの向こうが畑口川。かつては川との間に本道が通っていた。(明治28年陸地測量部地形図)
南側の石垣、周囲より高く作ってある。おそらく地下構造があるはず。
北西方向をのぞむ。明治の地図にはこの先に池のようなものが見える。おそらくたたらで使用していたのではないか。
たたら跡、というか鋳物作業所は井関八左衛門家の側にあったと書かれている。そこは200坪はあろうかという平坦な土地で畑として野菜を作っておられたそうである。今は何も栽培せずに草を刈って管理されている。ご主人の話によるとこの地は作物の育ち具合が悪かったということだ。
鋳物師のたたらと製鉄のいわゆる永代たたらとの違いがあるのか解らないところだが、鞴(ふいご)を使って高熱を得、砂鉄を溶かすか地金(鋳物原料鉄)を溶かすかの違いだけなのでおそらくたたらの地下構造は同様であると思う。そうであれば、地下3~5m程度は掘り下げられ、荒砂、砂利、粘土、木炭、灰などで突き固められているはずだ。それはなによりも乾燥を必要とするからだ。そのような構造ならばその上で作物の生育が良いはずが無い。なるほどと思わせる一幕だった。
昨年9月台風12号の災害で熊野のニュースが数多くあった。その中に那智川流域の井関(那智勝浦町井関)の大きな写真が讀賣新聞に記載され、思わず切り取って保管している。上林鋳物師の先祖、井関越後頭は、「和歌山の出身で、豊臣方に加わり敗戦、本願寺で出家、鋳物師技術を取得し元和3年清水村に来住」とある。(綾部史談第97号)
わたしは聞き伝えで、熊野の出身と聞いたことがあるが、いずれにしても和歌山県である。那智勝浦町の井関がその先祖の地ではないかと思ったのは、その地は妙法鉱山という平安時代からの鉱山があり、銅、鉄などを産出していたということである。熊野那智大社の支配であったというようなことが「鬼伝説の研究」(若尾五雄著)にあった。つまり井関氏の先祖は突然に鋳物師の職となったのではなく、和歌山時代から金属関係の手の職の憶えがあったのではないだろうかと考えたのである。
ご主人に尋ねたところ、そこのところは解らないということであった。現在は忙しくしておられるが、やがて手が空いたらルーツ探しをしてもらいたいと願うのである。
その御先祖のお墓が少し上手の道沿いにある。日を改めてお詣りしたいと思っている。つづく
今日のじょん:新じょん語録(12)出た手足に(目鼻をつけて)
ひょろひょろと出ている草や木が大の苦手、その下のボールを取らすのは大変。「出た手足に目鼻をつけて」と捨丸師匠の十八番を何度か唱えると、そろりと手を伸ばす。