晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

上林の鋳物師をたずねる(続々編) 5/28 

2012-05-28 | 歴史・民俗

2012.5.28(月)晴れ、夕立あり

 多くの鉄滓の中に長さが8cm、厚さは2cmほど、正方形ではなく、巾が段々開いていて、一方の辺が折られているような鉄の板が出て来た。即断はできないが、これは鋳物の原料となる銑鉄ではないかと思われる。「鋳物師」(内田三郎著)では地金(じがね)というふうに呼ばれていたようだ。出雲、伯耆などから原材料として仕入れられていたものだろう。生産現場では生金(なまがね)銑(ずく)と呼ばれていたようだ。化学的な分析をすればどこで生産されたどのようなものか判断出来るのだが、現時点では想像するしか無い。P1010812 P1010813
 



 
短時間で見学をするだけでは以上の事柄しか解らなかったが、上林の鋳物師について大きな謎が残る。
 その第一は井関氏がなぜ上林のこの地を選んで操業に至ったかということである。
鋳物業を始める場合必要な要件は木炭が得られること、原材料の搬入や製品の搬出の輸送条件が整っていること、良質な粘土や砂の材料が得られること、そして公害などに対する周囲の環境といったことがあると思われる。
  木炭の問題は簡単にクリアする。たたら製鉄の場でも「砂鉄七里に炭三里」と言われるとおり、木炭が近くに大量にあることが絶対条件となるのだが、そういう意味では上林の地は最適の地である。
 次に粘土や砂の確保である。現在上林の川は自然の姿を残しておらず、ほとんどが堤防、堰堤によって作られた流域となっている。明治28年の地図と比べてみても蛇行する角度が緩くなっており、砂の堆積も少なくなっているのだろう。地質からいえば、粘土や泥の多いだろう上林川流域よりも畑口川流域の方が純粋な砂を得られるように思う。そしてその畑口川中、下流域で最も屈曲のおおきいのが清水のあたりである。睦志(むし)の谷から流れ出る土砂とあわせて、畑口川の椀曲部には大量の砂があったと思われる。つづく


今日のじょん:やればできる。
 じょんの最も苦手なのは、ふらふらと出ている木や草やビニール袋とか。電気配線用のホースが出ているところにボールが行くともう大変。しまいには知らん顔したりする。そのままでは為にならないので声を掛けて励ますわけ。すると最後には勇気を出してボールが取れるのだが、やればできるんや。P1010826 P1010827 P1010828

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上林の鋳物師をたずねる・続編 5/27

2012-05-28 | 歴史・民俗

2012.5.27(日)快晴

 たたらに関する部品や鋳物の道具などは見つからず、いくつかの鉄滓をたたら跡から採取しておられた。興奮しながらその鉄滓を見せて頂く。
 色、形状、重量に関する限り、わたしが上林側念道附近で採取したものと同一である。少量の鉄分の含み具合、気泡による丸い穴、空気が通ったと見られる溝なども同様で、たたら跡のものは表面のガラス質の部分が多い。これは風化の進み具合によるものだろう。P1010811
 
清水村たたら跡で井関先生が採取された鉄滓(鋳物滓)
白い部分は砂、粘土と思われる。おおきいもので20cmぐらいか。


 わたしの採取した鉄滓の中に炭化した木片が混じっているものがあるが、これとて同様のものがいくつか存在する。
 結果、上林川で採取した鉄滓は、清水のたたら跡からなんらかの条件で運ばれたものだろう。
 
わたしは予想はしていたものの内心がっかりした。古代、中世の製鉄滓かと期待していたのが、近世の鋳物滓となると上林の製鉄の物的証拠は無くなったことになる。
 せめてもの救いは、わたしは精錬滓の実物を見たことが無いということだ。つまりひょっとしたら精錬滓かもしれないということだ。印刷物で見る写真ではその差異は解らない。今後は博物館や資料館で精錬滓の実物を確認することと、畑口川に繋がらない流域で鉄滓を見つけることだ。例えば大町以奥の上林川や上林川支流の谷で鉄滓を見つければ、それは少なくとも清水のたたら跡から出たもので無いことが言える。P1010819
 
鉄滓を一個頂いてきた(左)、表面にガラス質の輝きが見える。右はわたしが初めて発見した鉄滓。


 仮に清水たたら跡から出た鉄滓とわたしが採取した鉄滓が同一のものであったとしたら、それはどのような事由でそうなるのだろうか。
 まず洪水による流出が考えられる。上林川は長い歴史の間に数多くの洪水を経験している。清水村たたら操業開始後には嘉永年間、安政年間、明治3年、明治29年、明治40年と大きな洪水があり、昭和28年の台風13号は被災された方も数多く上林に居住されているところである。
 たたら跡の鉄滓捨て場がどこであったか不明だが、たたらの周囲であることは間違いない。28年の水害時にはたたら場のあたりまで水が来たと言われているので、大量の鉄滓が下流に流されても不思議では無いし、そう考えるのが当然の様だ。
 ところがどうしても腑に落ちないことがある。一年間の間に大小6個あまりの鉄滓を上林川で採取したが、そのいずれも堤防の内外であり、流域あるいは河川敷では無いことだ。つまり鉄滓は流出したのではなく、昭和28年水害後の復旧工事として、念道周辺の堤防に使われた土砂が清水のものではなかったかということである。もっと悲観的に考えれば、工事用の土砂が全然別の所から運ばれた可能性もあるかも知れない。そうなると念道の堤防で採取した鉄滓は何の意味も無いものとなる。P1010620
 
わたしが採取した鉄滓、上段右の4個と下段左から二つ目。下段の物には炭化した木材がある。


 このように鉄滓の出所を巡って悲観的な思いに陥るのだが、当時の様子を知る人に堤防工事の土砂の出所を聞いてもおそらく解らないだろうし、常識的に考えれば、当時の工事用運搬車、重機の状態から考えれば、堤防の土砂は現地調達されたものとしてよいのではないだろうか。被災時の写真や文章では、大量の土砂が流域を埋め尽くしており、橋や道路も不完全な中で他所から土砂を運ぶより現地の土砂を除去しながら堤防工事に利用するのが合理的な方法だと考える。
 その一つの証左として、河原の岩石と堤防をなしている土砂に含まれる岩石は同一のものであるということが言える。P1010469
 
わたしが採取したのは、念道橋周辺1000mぐらいで、両岸の堤防の外側、もしくは内側の上段である。


 そして鉄滓が流域に見つからず、堤防上のあちこちに見つかるというのは、鉄滓の比重によるものと考える。すなわち鉄滓は水に浮くということではないが、一般の岩石に比べ軽いので、水流にあるものは流れてしまい、堤防などの水流の無いところに残ったのでは無いだろうか。つづく

今日のじょん:来年の写真集、「おもしろじょん」の写真を収集すべくチャンスを狙っているのだが、狙うといいのが撮れない。新井状態だ。
今日はカモノハシじょんを狙ったのだが、上から目線はよろしくない。P1010820


 
 

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