晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

穴虫考(76) 馬場町-5 6/3

2014-06-04 | 地名・山名考

2014.6.3(火)曇り 考察-2

 穴虫は実際どこなのかという問題がある。地名辞典の小字一覧には、穴虫(穴虫、植カケ田、馬場)とある。植カケ田が現在の仕掛田だとすると、小字穴虫は草津川から願信寺方面に至る大きな地域となる。
 岡本工業団地口の橋から東に走る農道から北が小字穴虫の地域で、橋のたもとで軽トラのおじさんに聞いた穴虫がそれにあたるのだろう。それに対して、奥村さんに教えてもらった橋の北の堤防の地域が小分け地名の穴虫と考える。P1030055

 

農道から北(左手)の広い地域が小字穴虫で極手前の森辺りが本来の穴虫のようである。
 穴虫の意味を考える時、やはりピンポイントである小分け地名の穴虫を見ないといけない。しかし、志津村の大字である馬場(ばんば)、つまり草津市馬場町の馬場の地名が、小字穴虫の小分け地名の馬場から来ているとしたら、なぜ小字地名が馬場でなく穴虫なのか疑問に感じる。穴虫という地名がこの地域において重要かつ普遍的であったのだろう。
 葬地、墓地と関係がある地名だと仮定すると、馬場町の穴虫は河原のドウガラステバ、いわゆる遺体処理場がふさわしい。地先の島、岬、河原、中州などがそういった場所に選ばれたと言われているが、奥武、青の島などには戦前あたりまでそういった風習が残っていたところもある。それらの風習が海人のもたらしたものであるとすれば、彼らが日本海沿岸から河川に沿って内陸部に進出した場合、地先の島、岬の葬地が河川の対岸、中州に取って代わる可能性は充分考えられる。
 そういう葬地が草津川右岸の穴虫であるとしたら、そこを葬地とした人たちは左岸に居住していると考えられる。そうすると古墳や遺跡の状況から古代人が居住していたと考えられるので、つじつまは合ってくる。
 しかしこの仮説には重大な欠陥がある。草津川はこの地域特有の天井川であり、その生成の過程には築堤が存在している。つまり古代にはこの堤防は存在しないだろうし、流路も現在とは違うかも知れない。
 地形図を見ると鶏冠山(490m)から北に派生した三つの尾根が岡本町、馬場町、山寺町(栗東市)を作っている。草津川は築堤のためか割合直線的に走っているが、その一本西の若草と岡本町の間の川などは随分蛇行して青地町に流れている。また馬場町の真ん中を流れている流路も見られる。
 堤防の無い時代には、草津川は蛇行を繰り返しながら、馬場町の平地の間を流路を変えて流れていただろうと想像される。
 従って現在の穴虫の位置、特に築かれた堤防の景色を見て穴虫を論ずることはあまり意味がないのではないか。つづく
P1030063


草津川右岸、向こう側の岸が穴虫なのだけれど、この景色は本来の穴虫の景色ではないと思う。

【作業日誌 6/3】
溝さらえ、歩道清掃
P1030086



6年目にして初めて出来た溝さらえである。

【今日のじょん】蛇情報に変化があったわけではないのだが、いつもの連中はどこで日向ぼっこしているのだろうかと付近を探してみる。姿は見当たらないが、抜け殻が見つかった。しかし忌避剤散布後のものか以前のものか解らない。P1030084 P1030085

コメント
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