2014.6.21(土)曇り
綾部から香芝は遠い、時間にして3時間40分、交通費は特急を使わなくても4,000円あまり。何度も行けないので、できる限りの下調べと調査計画を練って行く必要がある。別所や穴虫の現地調査を何度もしているので要領も良くなっている。
古墳石棺の主要産地である二上山の象徴たる屯鶴峯を訪れること。
古代主要街道である大坂越、穴虫峠を見ること。
行政区穴虫の中に本来の穴虫を探すこと。
大坂山口神社(穴虫)から谷筋を詰める道を歩くこと。
二上山博物館を訪れること。
などを主要目的としたが、もちろん橿原神宮付近から穴虫峠にいたる景色を見て、古代の重要な街道の雰囲気を体験したいという気持ちは大である。
京都から橿原神宮前までは近鉄特急を利用する。実は学校を出てから京都丹波橋駅から天理線前栽駅まで1年半近く通勤していたのだ。毎日眺めた景色なんだけどまるで憶えがない、平端駅なんて乗り換えていた駅なんだけど記憶にない。もちろん40年前のことだから周囲の光景は変わっているんだろうけど、思うのは奈良盆地がこんなに広かったかということだ。平安の地京都盆地の閉塞感と違う開放感を感じるのはわたしだけだろうか。
農場で作業することもあった当時の感覚として、奈良盆地は最悪の環境だと思った。つまり夏は暑いし冬は寒い、そして何より水はけが悪くて湿気が強烈だ。何でこんな所に日本で最初の文化が花開いたのだろうと思ったものだ。
いまではそのことについて納得している。少なくとも大和の政権にとっての脅威は近くは吉備であり出雲であり、遠くは半島であり大陸であったのだろう。国内勢力に対しては生駒の山々が、海外勢力に対しては中国山地、瀬戸内海が自然の要衝として存在する。そういう意味で奈良盆地はすこぶる安全な地だったのではないだろうか。水はけの悪い湿気の多い、現代人には嫌われる地形も、灌漑設備の発達を見ない初期の稲作にとっては有効なものであったに違いない。大和に作物の原種が多いのも人の手による農耕が早くから定着したものと考えられる。こんなことをつらつら考えながら電車の風景を見るのは楽しい。
近鉄南大阪線二上山駅を降りたって、食堂でも喫茶店でもとにかく食べるところが無いか探す。予想通り何も無くて、穴虫交差点まで歩くことにする。道標がありコースはすぐに解る。暑くてしかも殺風景な165号線バイパスをとぼとぼと歩く。
あこがれの穴虫峠への道が見えてきた。いわゆる穴地形で、これこそが穴虫地名の原点だと当初は思っていた。
谷間の向こうが穴虫峠、山は遠くから見るもんだ。
問題は二上山だ。近鉄の笠縫駅辺りからその姿が見え始め、古代人があの世とこの世の境として見てきたことが納得できる独特の風貌だ。大和高田あたりでその姿が顕著に見えていたが、近づいてしまうとただの山並みとなってしまう。
【今日のじょん】プロ仕様の強力へび忌避剤を例の所に置いたのはもう10日も前だったろうか。
置いた翌日これだもんね
その翌日にちょこっと顔を出していたが、今日はしっかり全体を出して日向ぼっこしていた。プロっていったいなんやねん。
【作業日誌 6/21】
ドッグランど草刈り