2014.9.6(土)曇り
天国だと思った椎の木の上が実は地獄だったというあらすじの予告を見て、この童話のモチーフは戦時中の満蒙開拓村ではないかと思った。満州だけでなくブラジルやハワイなどの日本からの開拓移民は、国家の大嘘にだまされて楽園を夢みて海を渡り、彼の地で地獄を見ることになる。
昭和12年、水上勉は京都府の職員として満蒙開拓義勇軍の募集のため、周山を訪れている。そして満州に送った山国の子らは再び祖国の地を踏むことはなかった。丹波周山に収められた水上勉の文章は冬の雨のように寂しい。
丹波周山は「丹波・丹後」におさめられている。
わたしの予想は全然当たっていなかった。ブンナの話は母親がこどもに、世の中はこうなんだよ、生きていくことはこういうことなんだよと話して教える話なのだ。
だから読んでいてもおもしろい、次はどうなるんだろう、ブンナはどうなるんだろうとわくわくする期待感が湧いてくる。小さなこどもがなんで、どうしてと親に聞き続ける時期がある。そんな光景が浮かんでくる作品なのだ。
ブンナがどうなるかは、ここでは明かさない方がいいだろう。
あとがきにかえて「母たちへの一文」という章がある。母親にこの童話をこどもたちに読み聞かせて欲しいと言うことが書かれている。その最後のところに次のように書かれている。
凡庸に生きることが如何に大切であるかを、母親は先ず自分の心で抱きとって、子にはなしてほしい。そうであれば、ブンナが木の上で体験した世にもおそろしく、かなしく、美しい事件のすべてが、子供に、いくらかの考えをあたえ、この世を生きてゆくうえで、自分というものがどう確立されねばならぬかを、小さな魂に芽生えさせてくれる、と作者は信じる。
このような考えのかけらさえなくて、どうして、私たちは子供に、本を書いたり、話をしたりする資格があるだろうか。つづく
【作業日誌 9/6】
店の玄関蔦の剪定
【今日のじょん】じょんは右左が解るか?
例えばボールを見失ったとき、「ひだり」と大声を出すと左に行く。「よしよし」と言って褒めるからそこいらを探す。ボールが見つかったらまた褒めるから、余計自信がつく。ところが右に行く場合もある。その時は「ちがうちがう」というので途中で戻る。解っているのは右左ではなくて「よしよし」と「ちがうちがう」なんじゃないか。
「ひだりひだり」「あったぞよしよし」