晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

穴虫考(120) 福井県-11 9/29

2014-09-29 | 地名・山名考

2014.9.29(月)快晴 
山田清吉さんへの手紙(2)

 歴史的に自らの葬儀を生前に行うことは上層階級の中で行われてきた。
しかし、山田さんの擬葬とは根本的な考え方に置いて異質のものと思う。
門外漢のわたしがあくまで予想で言うのだが、山田さんの擬葬というのは、浄土真宗の教えに基づいた
、満足した生死の転換、いわゆる往生を実現したいと言うことではないだろうか。
 紹介した詩の他にもいくつか擬葬の詩があるのだが、すべてが平野の田んぼの中の藁葬にこだわって
おられる。
 実は山田さんに質問の手紙を書いた後に藁葬の様子を記録や写真で見ることが出来、山田さんが
詩の中に書いておられることも、わたしの想像もほぼ実際のものと相違ないことに気付いた。
 例えば「土」の中の「燃えて灰も骨もなくなるまで 孫達は鍬で頬杖」の光景も、現実の
写真のままである。


葬送墓制研究集成(1)にある藁葬と火葬中の写真、山田さんの詩のままである。
 山田さんが春江町の友人に聞かれたという藁葬は、詩の中に書かれたそのままである。にもかかわらず
穴虫や藁葬の研究をしているわたしのために再度確認に春江町を訪ねられた山田さんの厚意が嬉しい。
そして農作業が落ち着いた11月に落ち着いて藁葬の事について語りたいと言われている。
 最も驚くことは「冬になれば彼の家で己の藁葬の仮体験が出来たらと考えています。」と書かれていることだ。
 山田さんが田んぼの中の藁葬に憧れておられることはよく理解できる。でも現実には現在行われない葬法である。
仮の火葬とはいえ、昔のまま藁を束ね釣鐘状にして濡れ筵をかぶせ、一晩燃やしたらこれは事件である。
消防署はとんでくるだろうし、警察だって出動しかねない、大騒ぎになって引っ張られでもしたら大変だ。
しかしもう日本では見られなくなった藁葬を再現するとしたら、民俗学的にも葬送文化の面からも注目を浴び、
新聞社や大学、博物館などの後援も得られ、そうすると消防署などの支援も完璧で、安全に公に行えると思う。
 山田さんの詩を見る限り、このように大々的には絶対になさらないとは思うのだが、わたしとしては是非見てみたい
気持ちもあり、この件に関しては渡辺先生に相談してみようと考えている。
 
 航空写真で春江町を覗いてみる。山の者には想像もつかない平野である。藁葬の事を聞いたと言われる
友人も20町歩の田んぼを耕作しておられるという。その大平野の田んぼの中に小さな墓地が点在している。
株単位ぐらいの規模である。墓地というのは政策的に、不要な土地、非耕作地に設置されたという歴史的な
傾向があるが、このような土地では田んぼの真ん中に作るしかない。そして火葬もその場所で行われたのだろう。
 幾つかの墓地を眺めていると、コンクリートの小屋風の建物のあるのが見えた。無常小屋といって葬儀の
諸道具を納めておく小屋かと思ったのだが、よく見ると大きな煙突がついている。かつての火葬場かも知れない。
 こうなってくると火葬や地名の研究というより、山田清吉さんの詩の世界にはまり込んでしまう。

【作業日誌 9/29】芝生広場芝刈り、府道のり面等草刈り

【今日のじょん】午前中はゆきちゃんが来て思い切りドッグランした。午後はコロ助がきたんだが
疲れているかと思って出してやらなかったら、コロママはじょんとあそばしてやりたかったんだって。
わるいことしたなあ、遊ばしてやったら良かった。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする