晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

雨読 「葬儀の民俗学」-(2)  11/8 

2016-11-08 | 雨読

2016.11.8(火)曇り~雨

 筒井氏の「日本の地名」に一、市地名について書かれていたことは既に紹介した。八日市、廿日市など間違いなく市が立ったのだろうが、氏は市が立つような場所では無いところにも多く、一についても山中の寂しいところがあり、二、三とつづく地名も見当たらないと従来の市場説に疑問を呈しておられる。上林地区にも市茅野(いちかや)、市志(いちし)、市野瀬(いちのせ)などあるが、いづれも山間部である。氏はイチは神と人を繋ぐ人、つまりシャーマン、巫女のことではないかと説いておられ、その居住地が市、一地名になったのではないかということである。本書では佾(いち)について詳しく述べられていて、イチと呼ばれる巫女的な人物が存在したことは明らかである。氏は多くの一、市地名について、佾の居住した場所というふうに説いている。 
 ところがわたしはこのイチ地名佾居住説は素直に受け入れられない気持でいる。
 氏は「長宗我部地検帳」から佾の居住を証明しているが、その地にイチ地名は付いていない。須崎市大谷、野見大谷、戸波郷乙丸村、高岡郡高岡村、波介村、宇佐浜、南国市岡豊など佾が居住していたと思われる地名が挙げられているが、その地の小字にイチ地名があれば氏は記述されるであろう。氏の論文では佾の存在は証明できるが、その居住地がイチ地名になったことは証明していないのである。
 市場についても氏は山奥の市場など開かれそうに無いところに市場地名があるのはおかしいと言われているが、果たしてそうだろうか。氏は市場は都市部(もちろん昔のだが)で店が並んで人々が集まっているものを考えておられるようだ。しかし縄文時代でさえあらゆるものの流通があったことを考えると中世、近世には相当の物の流通、取引があったと考えられる。それは物々交換であったり貨幣による売買もあっただろう。山奥というのはそこが行き止まりではなく、そのむこうには違った世界があるものだ。例えば山村の峠の向こうには海につながる村があるという風に。そういう所で物を交換したり売買したりしてその場が市場だったのではないだろうか。
 上林にも市場がある。それは上林街道と洞峠を越える京街道の交点に存在する。

睦寄町の市場、右に曲がると洞峠を通る京街道。重要な分岐点である。
和知町にある市場も重要な街道の交点にある。そして上林の市野瀬も市志も田辺(舞鶴)に向かう峠(前者は菅坂峠、後者は八代峠)の麓にある。老富町の市茅野(いちかや)は若狭に向かう坪坂峠、永谷坂峠の麓に存在する。そういうわけでわたしはイチ地名市場説を採るものである。

五泉町市志の集落、この奥に八代峠がある、この先は丹後(与保呂)である。
 さて本日、おおい町の帰り、舞鶴を走っていると市街に入ったあたりに市場の道標を見つける。帰宅後調べてみると「八幡大神市姫神社」という大社がある、これは筒井氏の佾居住説もありかなと詳しく調べてみる。するとこの地にはかつて4と6の日に六斎市が開かれていたという(角川日本地名辞典)。やはり市場説が正しいようだ。
 ここで「風呂と日本人」「葬儀の民俗学」における筒井氏の編集態度にやや疑問がわいてきた。自説を押すあまりに本来比較検討すべき事項を無視するきらいがあるようだ。地名由来のように決定的に証明することが不可能な分野においては大切なことと思う。
 イチ地名については常々考えていたのだが、皆目見当もつかなかった。本書のお蔭でわたしなりに結論が出せて有り難いことと思っている。おわり 

【今日のじょん】天気も持ちそうなので、うみんピアの芝生広場(先端広場と言うらしい)に連れて行く。いつものように嗅ぎ回っていたが、先客の毛をすいたのが放ってあって気分悪くする。せっかくみんなに喜ばれている広場なのに、そのうち入場制限なんてされたらどーしてくれるんだ。こんなやつにワンコ飼う資格はないぞ。

コメント (1)
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