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晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

別所探訪(48) 加古川ー2  2/12

2013-02-13 | 歴史・民俗

2013.2.12(火) 曇

 探訪していないのに探訪記を書くのは心苦しいのだが、探訪したいと思いながら地図を繰っていると意外な発見がある。簡単に行くことが出来ないところはどこで何を見てくるかしっかりと下調べをしておかないと心残りとなることが往々である。
 さて次に訪れたいところは、福崎町の飯盛山(197m)である。中国自動車道福崎インターから東南に3Kmほどの山で、やはり形の良さそうな山でキャンプ場も有り親しまれていそうである。ここは市川の流域となるが、実は市川の上流越知川の奥にも飯森山(900m、多可郡多可町)を発見する。この東側は加古川上流の杉原川でかつて鳥羽、清水、樺阪などの銅を中心とした鉱山があった金属産出地帯である。
 杉原川の飯森山周辺には、鍛冶屋、安楽田(あらた)、荒田神社、金蔵寺、妙見山、多田、岩座神(いさり)、的場、観音寺、三谷、丹治、清水など金属や古代の信仰を思わせる地名や神社名がみえる。
 福崎の飯盛山周辺には鍛冶屋、多田、玉屋、八千種、福居、吉野などの地名が有り、鍛冶屋、多田は多可町の飯森山周辺にもあり、玉屋は加古川市の飯盛山周辺にも存在する。
 飯盛山の真北1Kmあまりの所に住吉山(200m)があり、麓に住吉神社がある。この地方に圧倒的に多いのは住吉神社で、海人族による文化伝搬が感じられる。
 この播磨の地域に四座のイイモリヤマがあり、総てが似たような環境にあるというのは単に飯を盛ったような形の山という意味ではないような気がする。
 さて最後に行ってみたいところは高御位山(たかみくらやま、299m、高砂加古川境)である。この山は加古川市の飯盛山と同様盃状穴と祓禊のための穿溝が発見され、古代祭祀跡遺跡とみられている。これ等の遺跡や高御位神社があるという。地形的には馬蹄形の連山の一画で、南と西に鹿島神社があるが、東麓の加古川市志方町成井周辺に、大己貴神と少彦名神の降臨伝説があり、高御位神社には二神が祀られているというので東面が主体なのかも知れない。東麓と南麓に神社のマークがあるがこれがどのような神社なのかは現地を訪ねないと分からない。
 古代祭祀跡、大己貴神伝説などはこの山にとって最も古い事項とおもわれるが、この地に特有の鹿島神社は播磨国分寺に関連するものということだからその次の歴史的事項だと思われる。
 国分寺について地図を巡らせていると、その付近に別所を見つけることとなる。
つづく

【作業日誌 2/12】
ウッドデッキ階段、塗装関係P1030883




村上さんに厚さ6cmのケヤキ板をもらったのだが、塗装が乾かないので大変。

 【今日のじょん】:雪は少ないといえどいくらかは毎日のように降っている。なごり雪というにはまだまだ寒い。この時期は上林川の日常の水量が最も高くなる。故郷の川合川に比べて随分大きい川やなあと今更乍らに見ていると、じょん君獣の臭いを嗅P1030878いで草むらに隠れてしまった。P1030879  

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別所探訪(47) 加古川-1 2/11

2013-02-12 | 歴史・民俗

2013.2.11(月・祝)雪

  実は「別所探訪」に書くべきか、「大唐内のこと」に書くべきか、「上林の盃状穴」に書くべきか迷ってしまって筆が進まないのだ。
 「海と人と川」で紹介した飯盛山古代祭祀遺跡(加古川市平荘町)と高御位山(たかみくらやま・加古川市、高砂市境)へ行ってみたいと地図を調べていた。
 飯盛山というのは各地にあって、概ね円錐形のいわゆる神奈備の山であって、信仰の山、聖地となっている場合が多い。「大唐内のこと」で執筆中の丸山(生守山・イモリヤマ)も将にこの形で、生守山=飯盛山という気がする。Img_3544
 



小唐内谷から丸山(生守山)

 また、鉱山を調べていると飯盛というところは多くあり、和歌山県の飯盛鉱山が銅鉱山として著名であり、桜井市の飯盛塚坑は水銀を産出していた。もちろん鉄鉱も存在している。飯盛というから飯を盛った形と思いそうだが実は他に意味があるのではないかと思っている。
 そんなこともあって各地の飯盛山を訪ねてみたいと考えていた矢先に、加古川の飯盛山古代祭祀遺跡のことを知ったので、行ってみたいと思ったところである。
 地図を調べて驚いたことは、加古川市の飯盛山から北へ10Kmあまりの所に飯盛山(加西市124m、兵庫県立フラワーセンター)があり、そこから西北西に10Kmも行かないところにやはり飯盛山(197m、福崎町)があるのだ。
 加西市の飯盛山はどのような山かと地形図を見ると、加古川の飯盛山と同様南に池を望む、円錐形の山のようである。この池の名が亀倉池とある。どう読むのか分からないが、”かめくらいけ”というのなら”かもくらいけ・神座池”かもしれない。池の南に神社があるがどのような神社かは分からない。多分その神社から飯盛山が遙拝できるのではないかと想像は膨らむ。周囲の地名など見ると、鎮岩(とこなべ)町、玉丘古墳、逆池、笹倉町、朝妻町など気になる地名がある。そして中国自動車道加西インターを越えた北に別所町を見つける。「別所地名事典」が手元にないので内容は分からないが、きっと産鉄に関する記事があるのだろう。
 別所町の東、高速道路を挟んで青野町と青野原町がある。瀬戸内海から加古川を遡った海人族の由来の町かなと思っていたら、なんとその隣に別府町(べふちょう)があるのだ。
 高知県香美市の別府を紹介したところだったので驚いている。
 また、「別所地名事典」では、小野市河合西町別荘山、小野市淨谷町浄土寺も別所として記されているが、加西市飯盛山の周囲にここまで多くの別所関連地名があるとは驚きだが、加古川流域が古代に繁栄した地域であり、また金属、特に鉄に関連した地域でもあることが想像できる。つづく

【今日のじょん】:デッキぽんぽこぽんも登って取れるようになったが、思い切り腰が引けて笑ってしまう。写真に撮ろうと思ったら察してかサッサとおりてしまった。残念。P1030876
 

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雨読 「海と人と川」 2/10

2013-02-11 | 雨読

2013.2.10(日)晴れ

 「盃状穴考」に記載された飯盛山古代祭祀遺跡の発見の記事は自分自身がその場に立ち会っているような興奮を覚えた。
 飯盛山と高御位山(たかみくらやま)の古代祭祀遺跡の発見経過が記されているというので、本書を購入した。
 「海と人と川 加古川流域古代への遡原」國領駿著 1984年12月1日加古川流域史学会発行 頒分1,600円 古書
P1030877
 



 あとがきのなかで、本書は庶民史学、雑民史学をモットーとして、一般にわかりやすいように書かれたもので論文ではないとある。また、加古川流域史学会が発行したもので、限定千部で実費頒布ということだ。
 雑民史「第一巻・川扁」として書かれたようで、引き続き「海扁・人扁」の稿を進めたいというふうに書かれているが、それらが発行されたか否かはわからない。
 國領氏はユニークな方で、序文の最初に次のように書かれている。
 
 雑学史である。それも極めて勝手気儘な放言的、常民雑学史であることを先ずお断りしておきたい。
  
 さて、本書の内容だが加古川を主題にしてその流域の古代をめぐり、発見発掘、考察をされたものである。ところどころ難解な文章や難しい言葉があるが、内容は他の古代史を扱う歴史の書物より随分面白く、あっという間に読んでしまう。
 最初に出てくるのは由良川と加古川の流路の話である。
 かつて由良川が瀬戸内海に流れ込んでいたことはご存じの方も多いだろう。もっとも何十万年という以前の事だけれど、現在でも本州一標高の低い中央分水界が氷上町石生(いそう)にあり、公園や資料館も設置されている。P1010420
 



丹波市氷上町石生、右手は竹田川から由良川、日本海へ左手は加古川から瀬戸内海にそそぐ。

そのことを知っていても古代文化の流れとは結びつかなかったのだが、氏はそこに濃厚な文化の流れがあると説かれている。これは極当然のことであって、由良川と加古川を結ぶ線が日本海と瀬戸内を結ぶ最も通行容易な交易路であることは簡単に解る。コロンブスの卵のような発想である。
 現在丹波市となっている地域に古代の遺跡が多く、海岸沿いに多い弥生遺跡が存在するのもこういった理由のようだ。
 盃状穴を伴った古代祭祀遺跡発見の項は期待通り、胸のわくわくするものであった。思うに歴史や考古の分野で盃状穴についての研究はほとんど見当たらない。これはその分野でまだ認められていないものだということだろうか。
 そういったものを先駆者として取りあげて発見、研究されているのは氏の独創性、柔軟性のなせる技であり、また権威に毒されない頑固さかもしれない。
 刳船の発見や古代高瀬舟の研究など川にまつわる古代の話題が満載であきさせない一冊である。

【作業日誌 2/10】
ウッドデッキ階段パーツ塗装

【今日のじょん】:雪だるまにしては目が下の方だなあと思っていたら、「まゆまろやがな」だって。ナルホドP1030871

 
 

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別所探訪(46) 別府(べふ) 2/9 

2013-02-10 | 歴史・民俗

2013.2.9(土)曇、雪

 新日本風土記「高知 神々と棲む村」で高知県香美市物部町が紹介された。物部という地名にほだされて見てしまったのだが、秋山郷と同様に興味深い所である。
番組では過疎の村の人々が八百万の神々と共に暮らしている様子を紹介するものであった。かつては日本のどの集落でも大なり小なりそのような生活をしていたのだろうけど、随分と省略し簡略化した生活となってしまった。
 実は先日渡辺さんが高知と徳島に行ってきたとお話しされていたのを思いだしたのだ。香美と言っておられたので聞きただしたら、やはり香美市であって、温泉に行ったと言われたので調べてみると別府峡温泉しかない。番組はこの別府峡温泉の周囲の集落が舞台であった。Img_5148




 
国道32号線根曳峠手前の展望、ここは香美市の西端である。2007年自転車旅行では物部川に向かわず、吉野川に向かった。

 影像で映し出されるのは、四国の山地特有の高所集落で、転げ落ちるような斜面に野菜や豆などを作っておられる。かつては米が穫れるということは無く、蕎麦が祭のごちそうだったと話しておられたが、今でも水田が出来るような耕地は影像にはなかった。
 別府(べっぷ、べふ、びょう)というのは「別符をもって指定された保で、社寺の封米を担当したもの」(地名の語源)、あるいは追加開墾された荘園を意味すると柳田国男氏は解いている。近江の別所で紹介した大津市の別保などもこういう意味でとられているが、この物部町の別府は荘園とか耕地を示す様な土地でないことは明らかである。
 「別」のつく地名は物部川沿いに他にもあり、物部町別役(べっちゃく)は別府から10Km程下流にあり、「別所地名事典」では”存疑”(柴田弘武氏のいうところの、蝦夷俘囚移配地としての別所としては疑わしいという意味か)となっている。
また、南の香南市香我美町にも香宗川源流に別役(べっちゃく)というところがあり、なにか恭通の意味がありそうだ。
 
物部川は高知市と香南市の境付近で太平洋に注ぐわけだが、その少し東、香南市赤岡町に別所山という所があり、ここは「別所地名事典」でも取りあげられている。Img_5133
 



40数年前に龍河洞を訪れているし、2007年自転車旅行でも野市まで訪れている。でもやはり物部は行ってみたいところだ。写真はくろしお温泉。

 これらの別役と別府は荘園の追加開墾も蝦夷俘囚も関係なさそうで、他の何かの意味があるように思える。
 なお、物部川沿いの鉱山関係は韮生川(にろうかわ)にマンガン鉱山があるようで、気になる地名は以下のとおりである。
 仁尾島、金剛山、大平、有谷(あらだに)、有瀬、吉野、笹、吹越、楮佐古(かじさこ)、アリノ前、程野、サイニョウ

【作業日誌 2/9】
植木鉢置き作製
ウッドデッキ階段準備

【今日のじょん】:積雪のため新たな事実が分かった。鹿は川から来ているとばかり思っていたが、山からの襲来もあるわけだ。どうしたものか悩むところである。P1030863 P1030864 P1030865  




つる草がやられてるぞ。足跡は斜面から来ている。道路側には鹿の足跡はない。
P1030866

やっぱり山から来てるんだ。 

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春近からじ 2/8

2013-02-08 | 日記・エッセイ・コラム

2013.2.8(金)雪

 昨年の今頃、連日の降雪で屋根の下など1mを越える雪が積もり庭が見えないようになってきた。まだまだ雪は降り続いて結局三十年ぶりだかの降雪となった。大唐内では2m近く積もったとか言われた。その前年の大雪でも植林の被害が大きかったが、この年の奥上林の倒木はすさまじかった。一年経って大唐内と市茅野の倒木処理は終わったらしいが、小唐内の倒木は未だそのままで、今年に行われるそうだ。そういう意味では今年の寡雪は山林の復旧には幸いなことだと思う。
 しかしまだ節分を過ぎたばかりで油断はできない。人間というのは甘いもので、ここ数日春めいた日が続くと、「もう春やなあ、今年は雪が少のうてよかったなあ」なーんて思ってしまうのだ。P1030848 P1030850




朝の積雪、デッキの上、念道散歩道。


 そんな緩みきったところへ、突然雪が降ったので驚きである。天気予報では雪の予報がなされていてもどうせたいしたことないやろと思ってしまうから不思議である。
 朝はうっすら程度だったのが昼には10cmを越え、夕方まで降り続いた。
そろそろ山にも行けるかな、木の切り出しも始めるかな、ウッドデッキもやっつけてしまおう、新しい峠にも行けるかな、盃状穴の神社巡りも楽しみだ、なんて春の期待がすっかり振り出しに戻ってしまった。
 かみさんがじょんと散歩に出て、帰ってきたら雪だるまを作っている。本当に楽しそうな声が聞こえてくる。P1030851 P1030857 P1030859
 



雪のボールを作ると大はしゃぎ。

 どちらもここに住まなかったら一生経験することがなかったかもしれない雪である。
寒いのは嫌だ、雪は嫌だといっているけれど、我慢するのも楽しむのも同じ冬である。
 わたしは雪が特段好きなわけではないが、雪の積もらない冬はつまらない。

【作業日誌 2/8】
植木鉢置き台作りP1030860




前回(右)の反省を活かした新型。

【今日のじょん】:本文に登場なのでお休み。

 

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上林の盃状穴(10) 穿穴実験 2/7 

2013-02-07 | 歴史・民俗

2013.2.7(木)曇

 盃状穴を知ったきっかけのテレビ番組では自作の盃状穴も紹介されていた。ところが論文を書いておられる研究者の方々の記述の中にはそういったものが見られない。実験をするための準備が大変なわけでなく、石を石でこすりつけるだけだから是非やって報告して欲しいと思う。そうすれば穿穴法に関する記述も少し変わったかも知れない。
 わたしの実験では、盃状穴を作るのはそう容易いことではないということがわかった。
 まず使用した被穿石は砂岩である。凝灰岩などの柔らかい素材でやりたかったのだが、手元になかったので次に柔らかそうな砂岩を利用した。
 なるべく硬そうで尖った石を探してきて掘り始めるが、これがなかなか大変である。ある程度穴があくとそこを中心にてこの作用も手伝ってぐるぐると廻転しながら出来そうだが、その穴があかない。
 穴というより最初の疵がつかないのだ。いろいろ効率的な方法を探ってみるが、やはり最初は十字に筋を着けてその中心に向けて筋を作って行くというのが効率的な方法と思われる。ところがすり減るのは手元の石ばかりで、被穿体の砂岩には一向に穴があかない。
 一日10分ぐらいか5日間ばかし掘り続けたのだが、あいた穴は2,3mmってところか、石の方も色々取り替えてみる。
 何という石か解らないが、黒くて硬そうで叩くと金属音のするものがある。細長いものが多く穿穴には最適と思われたのだが、意外と弱く粉になるのはこちらの方が多い。強かったのはへんれい岩でこれも意外だった。P1030815
 



あけ始めは先の尖ったものがいいようだ。

 そして6日目、一向に掘り進めないので何か他に良い方法はないものかと、石で叩いてみる。擦って筋を着けるよりも効率的だと思い、数回叩き続けるといとも簡単に砂岩は割れてしまった。
 というわけで実験はここでお終い、あっけなくも情けない結果である。問題は被穿穴材の材質と薄さである。一般的に穿たれている石材はそれなりの厚さがあり、割れたところもきれいに割れているので従前から割れ目が発生していたのかも知れない。次回はもう少し大きな石で、凝灰岩系の石を探して実験してみたい。P1030814
 



割れたことより、ここまでに少ししか穿たれていないことを見て欲しい。左は角礫凝灰岩、もう少し大きいので実験してみたい。

これだけの結果だが、重要なことが解った。子供の悪戯や生半可なおまじない程度では盃状穴は穿たれないということである。
 神社などの証言で、子供がいたずらにあけたのだろうとか、中には童歌の中にそれらしきものが歌われているから子供の悪戯だろうという説もある。
 確かに子供が盃状穴に草を入れて草搗き遊びをしているのはあったようだし、元々あった盃状穴を石で大きくする程度のことはあっただろう。
 また個人的な祈願のための穿穴であっても、相当な想いのある行為だろうと思う。単に現代人が初詣の際に祈る家内安全や学業成就などという祈りではこの行為は出来ないだろう。それは根気と労力のいる仕事だからである。それだからこそ呪詛とみなされることがあるのだろう。

【作業日誌 2/7】
ウッドデッキ階段作り

【今日のじょん】:じょんじょん面白写真集ノミネート
似合ワンシリーズ、祭だわっしょい。Img_3522

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上林の盃状穴(9) 葛禮本神社② 2/6

2013-02-06 | 歴史・民俗

2013.2.6(水)雨

 このあたりで焦りが出てくる、どこの神社にでもあるだろうという考えが甘かったようである。盃状穴について知らなくても、神社の石段などにある穴に興味をもって見てきた際にあらかたの神社にそれらしいものが存在していたのが甘い考えの原因である。河牟奈備神社の敷石の穴が盃状穴でないことがわかって余計不安になってきたのだが、ここ葛禮本神社で見つからないのは誠につらいものがある。
 それでもどこかにひっそりと人知れず穿たれた盃状穴がないものかと、本殿の敷石、境内社の周辺、石垣、灯籠、狛犬などつぶさに見て回るが、一向に現れない。P1030835 P1030836 P1030840
 


文化五年の灯籠、大山祇(おおやまづみ)神と澳津姫(おきつひめ)神、昭和十年の灯籠。

 結局葛禮本神社には盃状穴は存在しないと結論づける。
 なお、本殿前の古い灯籠は文化五年、新しいものは昭和十年の銘が入っている。
福知山、足立貞治、吉田清三の名が入っており一体どのような人が寄進したのか興味のあるところである。
 例えば祭神が金山彦命だけに金属関係、鋳物師や鍛冶師かもしれないと想像を膨らませてしまう。
 
 さて、葛禮本神社に発見できなかったのは残念だが、盃状穴を掘る実験をやっているので紹介したい。P1030773
 



砂岩に盃状穴を掘ってみる。

 盃状穴の作り方、つまり穿穴法(せんけつほう)については多くの研究者が書いており、「石棒状のはあくに手頃な石、または先端を丸く調整した鉄棒等の廻転による加工であろうことが窺うことができる。」(盃状穴考)というのが一般的である。もちろん古代中世において鉄を使用することは考えられないので、石を使って回転させて穿つというのがほとんどであろう。
 ところがこれを実験した文章は一向に見当たらない。もし実際に実験をしておられたら必ず論文に書かれると思うのである。そのくせ凝灰岩について「川原石を拾ってきて、簡単に穴があけられた」などという証言を採用されている。
 たしかに花崗岩に比べて凝灰岩が加工しやすいのは想像できるが、決して簡単に穴があけられるというものではないのだ。つづく

【今日のじょん】:夜中の吠えが続いている。今までと違うのはわたしが眠ってから、強烈にしかも長時間吠え続けるのである。ヒートポンプや食洗機の音、飛行機の音、小動物の気配などなど考えられるのだが、いつまでも続くというのはちと不思議だ。それがようやく確信の持てる原因が判明した。その翌日にはいつも庭のつる草が食べられているのだ。つまり犯人は鹿である。
 こればかりは犯人が判明したって解決にならない。困ったものだ。P1030843 P1030845 P1030844
 
 

 

やられてますなー、こちらのつる草も、この枝はうまいんでしょうなー。冗談じゃねえぞ!

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上林の盃状穴(8) 葛禮本神社① 2/5

2013-02-06 | 歴史・民俗

2013.2.5(火)曇

 睦合町中風呂にある葛禮本神社(くずれもとじんじゃ)は金山彦命を祭神とし、浅原(あずら)の入口に建っている。境内の栄鉾神社には縄文中期の頃作られたという石棒が祀られている。P1030829P1030832 
 



 
葛禮本神社と栄鉾社

 この石棒は子安の神としての信仰も篤いようで、こうなると盃状穴に対する信仰もありそうで、期待して訪問する。
 平地に建っているため石段の数は少ないのだが、古さは充分だ。経年のため凸凹しているがどうも自然の穴のようで盃状穴ではない。泥の溜まったものも持参のタワシで清掃して確認する。本殿下の石段に真円に近い大きさも手頃なものがあったのだが、盃状穴ではなさそうだ。周囲がクレーターのようにふくれていて自然の穴の様相である。P1030838 P1030841 P1030830
 



境内の敷石、鳥居下の石段、本殿下の石段、共に盃状穴では無さそうだ。

 次に石棒を確認する。現在は祠に収まっており全体像を見ることは出来ない。もっとも以前には祠はなくて、野外に露出していたそうである。昭和30年頃とあるから、露出した写真が残っているかもしれない。
 扉を開けて先端部を拝ませてもらう。縄文時代からあるにしてはきれいである。いくつか石棒を見てきたけれど、こんなにきれいなものは初めてだ。
 祠から出ている根元の部分にも、祠の中の先端部にも盃状穴は見られない。先端部の向こう側は見えないので、手探りで触ってみる。やはりツルッとしていてそれらしい跡は見られない。
 周囲に奉納されたものだろう、男根状の石などあるがやはり盃状穴は見られない。ただ、丸い石が供えてあり、丸石信仰のあとが見られる。これは石棒と同じように縄文時代からあるようで、説によると石棒より古い可能性があると言われている。不思議なことに関東の一部にのみ濃く残っていて、これが上林の神社にあると言うのは謎である。丸石信仰についてはもう少し調べてみたい。P1030833
 



奉納されたらしき石もいくつかあるが、盃状穴は見られない。

 この神社の石棒については三次博喜氏の論文があり、読んだことがあるが果たして丸石について書かれていたかは定かでない。
 次に水鉢だが、明治の銘があり、新しいものでもちろん盃状穴は見当たらない。社務所前に宝暦九年の水鉢が残っているが、これも盃状穴は見当たらない。P1030831 P1030834




明治に作られた現行の水鉢と宝暦九年とある水鉢。                                        つづく

【今日のじょん】:じょんじょん面白写真館ノミネート
似合ワン(09.11.17)Img_3467

 

 

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雨読 古代日本海文化と邪馬台国 2/4

2013-02-05 | 雨読

2013.2.4(月)曇、雨

 176ページの本だが読むのに3ヶ月ほどかかった。中身が濃いのと違ってつまらないからだ。タイトルと目次のタイトルは誠に興味深いものだが中身は何ともつまらないものであった。
 「古代日本海文化と邪馬台国」下田勉著 日本図書刊行会発行1991年7月第一刷発行、定価1000円、古書
P1030842
 


 日本図書刊行会という会社は、アマチュアから原稿を募り、売れそうな内容のものは発行しそうでないものは自費出版をしてもらうというシステムの会社のようだ。その中間的な本もあり、本書は自費出版か中間的な出版のものだろう。タイトルにつられて買ってしまった。
 自費出版の書物はいくつか所持しているが、概して内容が怪しげである。だからこそ自費出版となるのだろうが、自費出版でも必ず優秀な内容のものはあるだろうと思っている、ただ今までに出合っていないだけである。 

 著者の下田勉氏は神戸史談会役員とあるだけでどのような履歴、どのような立場の方か解らない。本書が出版社から出版されたのは間違いないのだけれど、自費出版か否かは定かで無い。おそらく自費出版であろうと予測するのだが、それだけ内容的につまらないものだからである。
 氏は邪馬台国については畿内説なんだが、魏志倭人伝の邪馬台国に至る記述を九州北部から日本海、そして由良川、福知山と解いて説明されているのだが、その根拠なり背景が語られていないのである。これでは歴史の授業を教科書に沿って習っているようなもので、歴史の真実を追究しようという者にとっては何の意味も無い読みものである。その他歴史的な事象、民俗的な事象についても断定的な結論を述べるだけで過程が語られていないのである。
 しかし読んでいて、氏の研究、探究の深さは推測できる。計り知れない史料を読まれ、様々な地を訪れておられることだろう。結論よりそのことを書かれた方がよほど読者に訴えるものがあったのではないか。
 歴史家として郷土史家として優秀な方であったのだろうが、本にする、読者に訴えるという意識、才覚がなかったのだろう。

【作業日誌 2/4】
植木鉢台完成、機能的には充分だが、視覚的によろしくない。駄作。P1030816




脚の部分が視覚的にアンバランス。

 【今日のじょん】:一旦上がれるようになれば後は簡単、連日デッキで遊んでるがよく見ると半落ち(尻尾が半分下がっている)でまだ警戒心が残ってるみたい。P1030812 P1030813

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ウッドデッキ奮戦記(8) 2/3

2013-02-03 | DIY

2013.2.3(日)晴れ

 作業日誌では報告しているのだが、記事では書いていないので現状報告をする。前回以降の作業は床板張り(という言い方が適当なのか解らないが)であるが、いってみればこれがメインであり、ウッドデッキ作業の醍醐味かもしれない。
 ところが永年使ってきたドリルドライバーのバッテリーが上がってしまったと思ったら、インパクトドライバーのバッテリーもいかれてしまった。予算を削って削って作業しているのに、このバッテリー随分高いのだ。この件は以前にも充分ぼやいたので、今回は避けるが、ウッドデッキ全体予算が5万円なのに、バッテリーだけで7,000円は必要となる。トホホ。しかし電動ドライバーはDIYの主役とも言える工具なので致し方ない。
 さて、床板張りの問題は植木の穴である。張ってからあけるのではなくてあらかじめ穴をあけてから張るので、結構手間である。床材も筋交いを入れてから張らなければ強度が持たない。それでもなんとか2個の植木穴をあけて、張り終えることとなった。ところが、きっちり枚数を測ってやったので、筋交いに使った一本分だけ足らなくなった。最も登りの段を作るのにまだまだ必要だから、今後購入、塗装していかなければならない。P1030796
P1030810



完成済みの穴Aと穴Bの準備。

 今回床張りは2×4、6フィートを2本の長さに作ったので真ん中を半分ずつずらして張ることにした。強度的にも見た目にもいいかなと思ったのだが、そうするとどちらの端にも2×2が必要となる。これが購入すると399円するのだ。2×4が248円なのでこれも納得いかない。
 今までは丸ノコのガイドバーを使って切断していたのだが、固定するのも困難だし真っ直ぐに切れないし、なんとも危険な作業であった。なんとか丸ノコ自体を固定して、きれいに簡単に切れる用具を作りたいと考えていたのだが、必要性が出て来てやっと作ることが出来た。材を挿入して押していくだけできれいに切れ、2×2、1×2だけでなく、希望の細さに切れるので大変お気に入りである。今回のウッドデッキに使用したのが初の活躍で、大変満足している。P1030701
 



作りは単純だが、とっても便利。

 今後は登り段、周囲の柵作りであるが予算が無いので如何に手持ちの材料でやるかが勝負である。
 5周年記念、6月1日にはドッグランど全体の完成が命題なので気合いを入れてやるべかなというところである。
 そして今日はニュースである。じょん君がやっとデッキに乗ってくれたのである。本当に初物に弱い子なので、他の犬から見たら笑い話みたいだ。P1030811




初乗りの瞬間、ややビビっておりやす。

 ほんとのことを明かすと、自分ではよう上がらんので、よっこらじょんと抱き上げて乗せたわけ。後はホイホイと乗っていたのであきれてしまう。まあそれでも二人で拍手していたので相当うれしかったようだ。

【作業日誌】、【今日のじょん】は本文登場のためお休み。
 

 

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続・阿弖流為  2/2

2013-02-03 | 歴史・民俗

2013.2.2(土)曇

 昨日ドラマ、アテルイ伝が最終回を迎えた。壮大なドラマなんだが4回で放映するのは少し無理があるのかも知れない。何となく尻つぼみの感が無いでも無い。
 その前日にBS歴史館で歴史家などを交えて座談会的な番組があった。考古学的な発掘の結果なども踏まえて、大和朝廷による蝦夷侵略を紹介していたのだが、その理由というのははっきり解らない。むしろ番組の目的がそんなところに無かったのかも知れないし、何しろアテルイについても戦いそのものについても史料ほとんど無いわけだから、それ以上のことが解るはずも無いということだろう。Img_1341
 



2006.10.21、自転車で花巻から一関まで北上川沿いに降った。この地がアテルイの本拠地であったことも、アテルイそのものについても知らなかった時であり、写真を見ながら今更ながら想いを馳せている。

 番組の中で相馬の製鉄遺跡のことが出ていた。朝廷軍の武器調達の遺跡と言われていたが、残渣などを見ると銑(ずく・銑鉄のこと)がほとんどで、刃物を作ったというよりは梵鐘や仏具、鍋釜や農具などの鋳物を作ったのではと言われていた。銑だから鋳物と言うわけでも無い、酸化脱炭すれば鋼鉄も可能なわけだ。しかし、もし寺院造営に関する鉄製品を作っていたとしたら、仏教による精神的支配、蝦夷の神を否定する民族の全面的屈服をもくろんでいたと考えても良いのだろう。
 蝦夷侵略の目的はその地の金属という見解が多い。「鉄と俘囚の古代史」の柴田弘武氏は鉄がその最大の目的と言われているし、谷川健一氏は非鉄金属、金、銀、銅などと主張されているようである。Img_1349
 



黒沢尻から西に入る和賀仙人周辺はは鉄、銅の鉱山が目白押しである。こういった鉱物資源が狙われたのだろう。(北上市立博物館で)

 番組の中でも蝦夷の俘囚が都の役人に蕨手刀(わらびてとう)を献上する場面があったように、都の支配者層では蕨手刀を持つことが流行したそうである。それだけ東北地方に産出する鉄と製鉄、精錬の技術は優れていたものがあるのだろう。
 金にしてもそれによって東大寺の大仏が鍍金可能になったように、東北産の金は注目されていただろう。
 「理系の視点から見た「考古学」の論争点」(新井宏著)のなかに、「国銅尽して鋳佛を止む」という記事がある。東大寺大仏の銅は山口県の長登銅山からもたらされたものだが、そこに銅を使ってしまい、その後の平安時代は歴史上最も銅生産の少ない時代となっている。ところが時代は大寺院の建立こそが権力の象徴という時代になっている、そのためには銅は欠かせないものとなっている。
 桓武天皇の蝦夷侵略の最大の理由は銅ではないかと思うところである。
 
 ところが蝦夷侵略はなにもアテルイとの戦い20年余りだけではなく、前後何百年も続いている。その時代時代の経済的欲求というのはあるのだろうけど、やはり根底には思想的なものがあるのだろう。それは皇国史観である。
 それは蝦夷だけでなくそれ以前に行われた熊襲や出雲の平定、鬼伝説に残るような各地での原住民への侵略などすべて同様の思想の元に行われたのではないだろうか。
 大和朝廷が権力を握るようになった時代から皇国史観というのは醸成され、桓武天皇の時代に古代に於ける確立がなされたと考える。その中心的な思想は、天皇は神聖であるということと、日本古来の神であると言うことである。このことこそがまつろわぬ民族を侵略し、化しなければならない根源ではないだろうか。
 何かの本で、桓武天皇の時代に天皇家と渡来人の関わりを示す文書が一切焼かれた焚書事件のことが書かれていた。何に書かれていたか思い出せないので探している最中なんだが、この時期に渡来人に対する差別が始まっているのは事実のようである。天皇家が日本古来の神聖なる氏族であるとするなら、本来の日本古来の民族である蝦夷は抹殺すべきと考えるのは当然の成り行きかとも思えるのである。
 日本人を不幸に陥れた皇国史観の萌芽がこの時期にあったことを忘れてはならない。

【作業日誌 2/2】
ウッドデッキ、植木穴周辺

【今日のじょん】:昨日は朝が冷え込んだ。なんとかデッキに登らせようと、ボールでつるんだけど、結局ダメ。がんこなだけでは叱られます。P1030804 P1030805 P1030806

 
 

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SFTS(2) 2/1

2013-02-02 | 日記・エッセイ・コラム

2013.2.1(金)曇

 ダニについての不思議は、一昨年までダニ被害は無かったことである。厳密に言うと7年前、自転車旅行の際にお腹を数箇所咬まれたことがあり、半年ほど痕が残ったことがある。もっともダニの姿を見つけたわけで無く、状況からするとイエダニかもしれない。Img_0386_2
 




咬まれたのは8月始め、写真は8月28日、咬傷痕は半年ほど残り、ジャージと擦れて痛いこと。

 一昨年はダニの大発生で、身体に食らい付いているところを何回も見つけているので確信犯であるが、これはマダニである。
 これがダニの不思議なんだが、生まれてこの方ダニとの遭遇は延々とあっただろうが、被害に遭ったのは一昨年が初めてであると言うことだ。Img_3411




大発生した2011年の写真、今年よりきれいなのが意外である。(2011.8.2)


 例えば子供時代には短パンにシャツの裸同然の姿で野や山を駆け回っていたのである。学生時代以降は山に通い始め、北アルプスや南アルプスではダニは居ないかもしれないが、丹沢や大台など低山だって登ってきたし、何日も寝泊まりもし、薮漕ぎだってし倒していたからダニの被害にも遭ってもおかしくはないはずだ。
 それが一切そのようなことが無かったのが不思議でならない。
 イヌと同居するようになってからが、被害が始まったのでこれが原因とも考えられるが、フロントラインのお蔭でダニは死んで居るようなのでちとおかしい。同居しているかみさんには被害は無いのでやっぱり犬が原因とは考えられない。
 イノシシやシカなどの獣が出るようになって初めてマダニが現れたのだろうか。しかし山に登っていたころ、低山ではヌタ場があったり、鹿を目撃することもあったので獣の居るところで寝泊まりしていたはずだが、ダニ被害には遭わなかった。
 ダニに咬まれる体質があるのだろうか。例えばブヨや蚊に刺されやすい体質はあるようだ。かつて二人で比良の山中で並んで休んでいるとき、自分の方ばかりにブヨが集っているのに気づいた。同行のN君にはまるで集っていないのだ。場所が関係するのかと、急に座っている場所を変えようかと相談してやってみると、当座は集まってこないのだがやがてこちらに集まってきてN君の方には居ないのだ。
 こういうことがあるみたいだ。つまりなんかの拍子にダニに好かれる体質になったのかも知れない。
 もうひとつ不思議なことは昨年の咬傷である。太もも、膝の横、袋はぎ、くるぶしなど刺されているのだが、実に左右対称に咬まれているのだ。マダニに咬まれるときは野山の場合がほとんどだと思うのだが、その場合はズボンをはいているのでこうなるのはおかしい。寝ているときに咬まれるとしたらマダニではないが、寝具などは対策をしているので寝ているときに咬まれているとは考えにくい。
 とまれダニについては納得のいかないことが多すぎるわけ。人間用のフロントライン作ってくれ~。

【今日のじょん】:おどーもおがーも新年会なるものに行って、久々のロングタイム留守番をしてしまった。留守番にも慣れさせないと、、、、というわけで映像は無し。P1030808
じょんが留守番している間、イワンさんとこで盛り上がる。

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