鉄道シリーズその27。今は東京駅の新幹線ホームに行けば、色々な種類の流線型車両に出会うことができるが、鉄道の世界でその歴史は意外に古い。創成期はとにかく人の足や自転車より早く走ればよかった鉄道も自動車、飛行機とライバルが次々に現れてオリンピック憲章ではないが、『より早く』を目指した結果であるが、それだけでなく、我々鉄道ファンを魅了するのは『かっこよさ』であろう。
小生が、流線型車両を意識したのは間違いなく東海道新幹線0系である。始めて乗ったのは昭和40年3月だからもう50年近く前のことだが、東京駅で対面した感動はわずか6歳だったが今も思い出す。もちろん、ビュッフェにあった速度計にもおどろいたのだが。
今回は日本の鉄道のうち、戦前派の国鉄車両について書いて見ることとしたい。
蒸気機関車はC53の1両が流線型に改造されたのが、昭和9年のことである。100キロの出ない当時の蒸気機関車のスピードでは改造効果はあまりなく、逆に改造のためにフードをつけた重さのために遅くなると言われ計測さえされなかった。
ただ、好評であったため、C55の21両が流線型で製造された。そしてこれらの流れが南満州鉄道のあじあ号(パシナ型)に引き継がれていく。
しかし、戦時色が強くなり、この後はD51の煙突部分にマフラーが取り付けられた(いわゆるナメクジ型)くらいだが。
電気機関車はやはりEF55である。これは流線型で設計され、昭和11年に3両製造された。うち1両は今も高崎機関区で準鉄道記念物として残されている。製造当時は特急用として『つばめ』『富士』などを牽引した。
ただ、その独特なフォルムは賛否両論あり、一部では『どた靴』『靴のお化け』などと陰口を叩かれた。(いまはムーミンと呼ばれている。)また、左右対称で前後に運転台のある一般的な電気機関車と異なり、片方にしか運転台が無い非対称のため、転車台を必要としたことも嫌われた原因である。
電車はEF55と同じく昭和11年に製造された52系が有名である。これは42系をベースに京阪神の急電向けに4両の固定編成を組むことを前提に設計され、第1次車はスカート付きで葡萄色にベージュを組み合わせた比較的地味な塗装であった。
当時、阪急、阪神などと顧客獲得合戦を演じていた国鉄が切り札として出した新型車両で、日本社会に流線型ブームを引き起こすほどのインパクトがあった。
それぞれの分野で流線型がブームとなったのは昭和恐慌が収まり、太平洋戦争前の短く、比較的良い時代であった。当時もより早くなりたいという鉄道マンの気持ちを表したロマン溢れる車両のスタイルは今見ても新しく美しい。