国分寺(真言宗豊山派、再建)を見た後、武蔵国分寺の遺構を見に行く。本堂から少し坂を下り、墓地の横を抜けると大きく開ける。広大な土地こそが武蔵国分寺の遺構なのである。
手前に建物の礎石が一列に並んでいるが、ここが講堂跡。桁行7間(36.2m)、梁行4間(16.6m)の巨大な建物で当初は8世紀中頃に創建。
9世紀後半に建て増しをしたものと考えられる。講堂は経典の講義が行われた建物である。
その前にあったのが金堂で周囲は講堂と同じ桁行7間×梁行4間で中央部に須弥壇があり、基檀の高さは70cm〜90cmと想像される。国分寺の金堂としては最大規模と考えられる。
また、左右には鐘楼と経蔵の跡があり、さらに左右に僧坊があったと考えられる。周りは東西156m、南北132mにもわたり、当初は堀立柱塀であったものが、築地塀に建て替えられていたと発掘調査により考えられている。
塀の南中央部には中門があったと考えられ、礎石や基壇こそないものの、門の南東・南西には8個の礎石が埋められていたことから門の位置が推定されている。
この南側に離れた位置に南門があったと推定されている。さらに東へ200m行った地点には七重塔があったとの記録がある。
発掘調査で基壇が17.7m四方、高さが0.95mあり、塔が作られたが835年雷火事により焼失、その後再興されたとの記録が残る。(2本塔があった訳ではない)高さはあくまで推定だが60mあったと考えられている。
七重塔の遺構としては中央にほぞ穴(心柱を受ける穴)がある心礎など7つの礎石が残されている。
これだけの規模の寺院があっただけでも凄いことだが、さらに跡地15万平米をそのままの姿で明治以降も残した行政の功績も大きいと実感した。(以下、次回)