わたしはいまだにわからないのだけれど、高畑勲の前作「ホーホケキョとなりの山田くん」は、どうしてあんなに酷評されて、しかも大コケしてしまったのだろう。
水彩のような、あまりにアニメ絵と違った画調だったから?四コマ漫画の映画化が期待できなかったから?声優をほとんど使わないジブリ方式が警戒された?
わたしは満足した。というか感動までしてしまった。ミヤコ蝶々のセリフは滋味深く、妻と見ていて「いいなー、これ」と。しかしまさか「かぐや姫の物語」がつくられるまで、史上最高のセル画枚数だったとは知りませんでした。
つまり高畑勲にとって、アニメとは、映画とは“そういうもの”なのだろう。作り手が必ず遭遇する「妥協するポイント、妥協するレベル」が違うというか。
「かぐや姫の物語」も、その姿勢のせいで製作は例によって順調に遅れ、「風立ちぬ」との同日公開は回避された。正直にいえば、商売的には正解。相乗効果は減じても、どちらも大人の観客が目当てなので、食い合ってしまったろうから。
それにしてもまんまかぐや姫のお話。日本昔ばなしだってもう少しアレンジするのではないか(笑)。まあそれは冗談にしても、竹取物語を“履修”した気分にもなった。最後の、月からの訪問者が“あの姿”なのは、当時の宗教観が出ているのかな。
かぐや姫の性格が、露骨にもののけ姫なのは賛同してもらえると思う。サンが誰も幸せにしなかったように、かぐやもまた、地球人の誰も救わない。
逆に(ここからネタバレですけど)、唯一の救いだった捨丸にいちゃんとの逃避が成功したとすれば、彼女は捨丸の家庭を破綻させることになる。つまりは地球のどこにも彼女の居場所はなかったわけで、そのあたりの苦みはやはり大人向けなのでした。ストレートな階級闘争に見せて、それをひっくり返す脚本がいい。
俳優に先に演技させ、あとから絵をそれに合わせる流儀なので、例によって配役は豪華。かぐや姫に求婚する連中がほとんどそっくりショーなのはご愛嬌(橋爪功、伊集院光など)。帝を無邪気な女たらしにあそこまで描いてクレームは来ないのかとまで(笑)。
最高に笑わせたのは田畑智子の女童。ある意味、かぐや姫を“救った”のはパタリロなルックスの彼女なのでした。