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お寺のオバサンのひとりごと

心のマッサージにお寺へ行こう!

「信じる」って?

2007年01月17日 | 仏教
 昨日ある生命学者の本を読んでいて思ったこと。
 たいていの日本人が「私は無宗教です」と言う場合2つに分類されると思う。

1,全ての宗教を軽蔑し、自分の理性だけで生きてゆけると思っている場合

2,宗教的考え方は人間に必要だと思うので、宗教を軽視するわけではないが、 特別「○教を信じています」と言えるほどじゃないので、取りあえず「無宗教」と言う場合

 そして、2の考え方の多くの人が「信仰」ということを誤解しておられる。

 仏教で言う「信」とは、「自分が信じる、信じない」という「自分の理性」を基準にした信ではありません

 むしろ、「自分で賢いと思っているその頭(理性)をちょっと空にしてみたら 見えてくる世界があるんじゃない
 
 「それは、自分で考えることを止める(人の言いなりになる)という意味ではなく、自分色の価値観に仏の無色透明な価値観があることを知ることで、自分の考え方が自由になる、豊かになる」という肩の力が抜けた「信」なんです。

 「自分で力んで一生懸命信じる」「何かよくわからないけど、取りあえず御利益がありそうだから信じる」「自分が信じているから、この教えだけが正しい」
 というのは自分の執着を離れていない。自分の考え・思いに固執するのは、仏教の「信」ではない。

 その正反対、自分の執着を離れたところにあるのが、仏教の「信」

 宗教すら、「自分の理性で理解したら、信じてやろう」と自分中心の考え方に執着している傲慢さ・・・
 
 自分のありのままの姿(心)が「恥ずかしい」と見えてきたところに、仏が寄り添ってくださると、受け取れる・・・自己執着の狭い価値観が、「仏」という広大な価値観に包まれる。その中で「私はわたしのままで生きてゆける」と自己再生される・・・

 仏教の信は、「自分の信仰」でなく、「仏」から気づかされる「信」なのであります。

 
コメント (3)
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