昨日ある生命学者の本を読んでいて思ったこと。
たいていの日本人が「私は無宗教です」と言う場合2つに分類されると思う。
1,全ての宗教を軽蔑し、自分の理性だけで生きてゆけると思っている場合
2,宗教的考え方は人間に必要だと思うので、宗教を軽視するわけではないが、 特別「○教を信じています」と言えるほどじゃないので、取りあえず「無宗教」と言う場合
そして、2の考え方の多くの人が「信仰」ということを誤解しておられる。
仏教で言う「信」とは、「
自分が信じる、信じない」という「
自分の理性」を基準にした信ではありません
むしろ、「自分で賢いと思っているその頭(理性)をちょっと空にしてみたら
見えてくる世界があるんじゃない
」
「それは、自分で考えることを止める(人の言いなりになる)という意味ではなく、自分色の価値観に仏の無色透明な価値観
があることを知ることで、自分の考え方が自由になる、豊かになる」という肩の力が抜けた「信」なんです。
「自分で力んで一生懸命信じる」「何かよくわからないけど、取りあえず御利益がありそうだから信じる」「自分が信じているから、この教えだけが正しい」
というのは自分の執着を離れていない。自分の考え・思いに固執するのは、仏教の「信」ではない。
その正反対、自分の執着を離れたところにあるのが、仏教の「信」
宗教すら、「自分の理性で理解したら、信じてやろう」と自分中心の考え方に執着している傲慢さ・・・
自分のありのままの姿(心)が「恥ずかしい」と見えてきたところに、仏が寄り添ってくださると、受け取れる・・・自己執着の狭い価値観が、「仏」という広大な価値観に包まれる。その中で「私はわたしのままで生きてゆける」と自己再生される・・・
仏教の信は、「自分の信仰」でなく、「仏」から
気づかされる「信」なのであります。
たいていの日本人が「私は無宗教です」と言う場合2つに分類されると思う。
1,全ての宗教を軽蔑し、自分の理性だけで生きてゆけると思っている場合
2,宗教的考え方は人間に必要だと思うので、宗教を軽視するわけではないが、 特別「○教を信じています」と言えるほどじゃないので、取りあえず「無宗教」と言う場合
そして、2の考え方の多くの人が「信仰」ということを誤解しておられる。
仏教で言う「信」とは、「


むしろ、「自分で賢いと思っているその頭(理性)をちょっと空にしてみたら


「それは、自分で考えることを止める(人の言いなりになる)という意味ではなく、自分色の価値観に仏の無色透明な価値観

「自分で力んで一生懸命信じる」「何かよくわからないけど、取りあえず御利益がありそうだから信じる」「自分が信じているから、この教えだけが正しい」
というのは自分の執着を離れていない。自分の考え・思いに固執するのは、仏教の「信」ではない。
その正反対、自分の執着を離れたところにあるのが、仏教の「信」

宗教すら、「自分の理性で理解したら、信じてやろう」と自分中心の考え方に執着している傲慢さ・・・
自分のありのままの姿(心)が「恥ずかしい」と見えてきたところに、仏が寄り添ってくださると、受け取れる・・・自己執着の狭い価値観が、「仏」という広大な価値観に包まれる。その中で「私はわたしのままで生きてゆける」と自己再生される・・・

