先日の「真宗講座」・内藤昭文先生「仏教概論」の講義で
唯識学「八識」
「唯識」の「識」は「心」とほぼ同義語として使用される。この「識」とは、私たちの日常の認識、見たり聞いたり考えたりする心の働きを意味している。
その識を仏教では 1・眼識、2・耳識、3・鼻識、4・舌識、5・身識、6・意識 の「六識」で考えている。これを「現行識(現に働いている識)」と呼ぶ。
つまり、自分で自覚できる世界のことです。
でもそれは、心の世界の、例えたら、海面に出ている氷山に一角にすぎず、海面下には潜在的な識、無意識の識として、7・未那(マナ)識、8・阿頼耶(アーラヤ)識を説く。
阿頼耶(アーラヤ)識は、心の一番奥底にある識で、
単なる記憶ではなく、生まれ育った価値観と言いますか、無意識のうちに刷り込まれた私たち各人の無意識の識ですね。
その阿頼耶(アーラヤ)識を経た自我でしか物を考えない「我執」が未那(マナ)識。
そのマナ識が転じられなくては、自己中心を離れられない、つまり、自他平等、悟りはありえない・・・というお話でございます。
さて、阿頼耶(アーラヤ)識の「Alaya」とは「蔵」の意味で、「たくわえる」という意味。
サンスクリット語(古代インド語)で「雪」を「hima(ヒマ)」と言い、それに、「蔵」=「alaya(アーラヤ)」で「ヒマラヤ」
ヒマラヤは、常に「雪をたくわえている」と言う意味なんだそうです。
唯識学「八識」よりも、ヒマラヤの意味に「へ~」と、感心した私なのでありました。
唯識学「八識」
「唯識」の「識」は「心」とほぼ同義語として使用される。この「識」とは、私たちの日常の認識、見たり聞いたり考えたりする心の働きを意味している。
その識を仏教では 1・眼識、2・耳識、3・鼻識、4・舌識、5・身識、6・意識 の「六識」で考えている。これを「現行識(現に働いている識)」と呼ぶ。
つまり、自分で自覚できる世界のことです。
でもそれは、心の世界の、例えたら、海面に出ている氷山に一角にすぎず、海面下には潜在的な識、無意識の識として、7・未那(マナ)識、8・阿頼耶(アーラヤ)識を説く。
阿頼耶(アーラヤ)識は、心の一番奥底にある識で、
単なる記憶ではなく、生まれ育った価値観と言いますか、無意識のうちに刷り込まれた私たち各人の無意識の識ですね。
その阿頼耶(アーラヤ)識を経た自我でしか物を考えない「我執」が未那(マナ)識。
そのマナ識が転じられなくては、自己中心を離れられない、つまり、自他平等、悟りはありえない・・・というお話でございます。
さて、阿頼耶(アーラヤ)識の「Alaya」とは「蔵」の意味で、「たくわえる」という意味。
サンスクリット語(古代インド語)で「雪」を「hima(ヒマ)」と言い、それに、「蔵」=「alaya(アーラヤ)」で「ヒマラヤ」
ヒマラヤは、常に「雪をたくわえている」と言う意味なんだそうです。
唯識学「八識」よりも、ヒマラヤの意味に「へ~」と、感心した私なのでありました。