会津美里町の楢葉の仮設住宅訪問。
福島の新聞社の方が取材にみえていましたので、仏教讃歌や「ふるさと」を歌っているところが掲載されたかもしれません。
楢葉の方との交流会の後は、会津若松市内のH寺さんへ。
H寺さんをお借りし、会津若松に避難しておられる大熊町(原発すぐ近くの町で帰宅困難地区)の方々をお招きしての交流会。
まず、大熊町の方と佐賀の者が混じって座り、昼食会。

その後、本堂で、東日本大震災関連で、ご往生された方々を偲んで「追悼法要」
今回、佐賀からの4人の男性僧侶が調声をつとめられ、一同「讃仏偈」のおつとめ。

その後、仏教讃歌を披露
(参加くださった大熊町のほとんどの方が「仏教讃歌」なるものを初めて知ったと言われていました
)
ここでも「ひとりじゃなかもん」フラダンス。そして、「上を向いて歩こう」など数曲をご一緒に歌いました。
門徒会館に戻って、抹茶接待。 皆さん、「美味しい
」と、喜んでくださいました。
お抹茶って、ホッとする、不思議に心和むものです。
佐賀から持参した抹茶碗は、そのままプレゼント。(その他、佐賀の特産品:佐賀のり、嬉野茶、有田焼の食器類など ← 全て、今回の参加者が提供 をプレゼント)
その後は、団長のS寺前住職さんを司会に、パネルディスカッション(意見交換会)
まず、3名の大熊町の方が体験やお気持ちを話してくださいました。
1,避難訓練は役に立たなかったこと
行政、消防、警察など、連絡や指示がバラバラ だった。
オフサイトセンター(緊急事態対策施設)が、場所によって全く機能しなかった(原発から数kmの施設にヨウ素剤など保管してあったが、何もならなかった)
2,避難場所の難しさ
昼間の災害だったため、家族はバラバラ。避難場所もいろいろ。あの寒さの中、コンクリート床の倉庫に段ボール1枚で過ごした所も。
食事の配給も2日間でおにぎり1個であったり。ジャムパンばかり大量に来て、3食ジャムパンだったり・・・
避難場所では、高齢者の枕元で子どもが走り回る。苛立った大人が赤ん坊の泣き声がうるさいとどなる 等など
1,2は、震災が原因ですが、3は、福島第1原子力発電所事故のせいです。(想定できた地震、津波の対策を東電はとっていなかった)
3,帰宅困難地区の方は、故郷がなくなった
家はほとんど壊れていません。一時的な(数日の)避難だと思って、何が何だかわからないまま、家を出られました。
2世代、3世代で住んでいた広々した立派な家、美しい自然、先祖代々の田畑、山林、墓地、近所とのお付き合いも・・・生活の全てを無くされました。
ほとんどの方が、病気(身体も、心の病も)を発症。
でも、負けてたまるかと気力をふりしぼり、また、あたたい励ましにふれて、何とか生きてきた と、聞かせていただきました。
福島の新聞社の方が取材にみえていましたので、仏教讃歌や「ふるさと」を歌っているところが掲載されたかもしれません。
楢葉の方との交流会の後は、会津若松市内のH寺さんへ。
H寺さんをお借りし、会津若松に避難しておられる大熊町(原発すぐ近くの町で帰宅困難地区)の方々をお招きしての交流会。
まず、大熊町の方と佐賀の者が混じって座り、昼食会。


その後、本堂で、東日本大震災関連で、ご往生された方々を偲んで「追悼法要」
今回、佐賀からの4人の男性僧侶が調声をつとめられ、一同「讃仏偈」のおつとめ。

その後、仏教讃歌を披露


ここでも「ひとりじゃなかもん」フラダンス。そして、「上を向いて歩こう」など数曲をご一緒に歌いました。
門徒会館に戻って、抹茶接待。 皆さん、「美味しい

お抹茶って、ホッとする、不思議に心和むものです。
佐賀から持参した抹茶碗は、そのままプレゼント。(その他、佐賀の特産品:佐賀のり、嬉野茶、有田焼の食器類など ← 全て、今回の参加者が提供 をプレゼント)
その後は、団長のS寺前住職さんを司会に、パネルディスカッション(意見交換会)
まず、3名の大熊町の方が体験やお気持ちを話してくださいました。
1,避難訓練は役に立たなかったこと
行政、消防、警察など、連絡や指示がバラバラ だった。
オフサイトセンター(緊急事態対策施設)が、場所によって全く機能しなかった(原発から数kmの施設にヨウ素剤など保管してあったが、何もならなかった)
2,避難場所の難しさ
昼間の災害だったため、家族はバラバラ。避難場所もいろいろ。あの寒さの中、コンクリート床の倉庫に段ボール1枚で過ごした所も。
食事の配給も2日間でおにぎり1個であったり。ジャムパンばかり大量に来て、3食ジャムパンだったり・・・
避難場所では、高齢者の枕元で子どもが走り回る。苛立った大人が赤ん坊の泣き声がうるさいとどなる 等など
1,2は、震災が原因ですが、3は、福島第1原子力発電所事故のせいです。(想定できた地震、津波の対策を東電はとっていなかった)
3,帰宅困難地区の方は、故郷がなくなった

家はほとんど壊れていません。一時的な(数日の)避難だと思って、何が何だかわからないまま、家を出られました。
2世代、3世代で住んでいた広々した立派な家、美しい自然、先祖代々の田畑、山林、墓地、近所とのお付き合いも・・・生活の全てを無くされました。
ほとんどの方が、病気(身体も、心の病も)を発症。
でも、負けてたまるかと気力をふりしぼり、また、あたたい励ましにふれて、何とか生きてきた と、聞かせていただきました。