お寺のオバサンのひとりごと

心のマッサージにお寺へ行こう!

福島被災地 支縁の旅 3日目 その2

2015年09月10日 | 行事・案内
 塩屋崎灯台に上った後は、近くの小名浜漁港の大きな魚屋さんのレストランで昼食。

 1階の店舗には、全国あちらこちらからの鮮魚、乾物、加工品などが並んでいるのは見ていたのですが、
後日、今回の「支縁の会」団長のS寺前住職さまから頂いたお葉書で、初めて知ったこと(S寺前住職T師が書かれた文章を一部)をご紹介します)

 店舗には北海道のサンマや大分の牡蠣が並び、昼食には呼子のイカが出ました。週1回の漁にしか出られず、獲ることも、まして売ることもできない。「被災漁師」の人々に全国の漁業者が毎日空輸で支援して下さるお魚が、店頭や食事処に並ぶ

 苦境の小名浜ですが、観光客で賑わっていました。レストランもフル回転、時間交代で満席。

 美味しい昼食後は、いわき市から、国道6号線(仙台 ⇔ 東京・日本橋 間 の国道で、一番太平洋側の道、つまり、福島原発に一番近く、しばらく通行止めだった道路)を 北上。

 
 
 今は、誰もいない、楢葉の道の駅。
今、ここは、警察の臨時庁舎になっています。(おそらく、全面通行止めの期間は、全国から応援に行った警察官が、立ち入り禁止のガードしておられたのでしょう)
 我々は、ここでトイレだけ、短時間の休憩。

  

 この楢葉の道の駅から先は、車から降りることはできません。車に外気をとりいれることはできません
 
 通行量は、多いです。大型トラックが目立ちます。荷台に黒いビニール袋を積んだ車輌が目立ちます。
 黒のビニール袋の中は、汚染されたガレキや土など。

 住宅地などの土を5cm削って、除染しているらしいですが、山林は除染できません。雨が降れば、山から放射性物質が流れてきます。
 その繰り返しだそうです。

 楢葉から富岡町、さらに北上して、福島第1原発のある大熊町、双葉町、国道6号線は、原発から最短2kmの所を通っています。

 この辺りは、決して過疎地ではありません。たくさんの方(帰宅困難区域は、約25,280人の方、昼間だけ一時的に帰宅できる居住制限区域には、約24,620人)が住んでおられました。

 どこの地方都市でも見かける全国展開の衣料品店も地震でガラスが壊れたまま・・・洋服も吊り下がったまま・・・
 家屋の倒壊は、見えません。ただ、人が住んでいない、ゴーストタウン。
 
 色も匂いもない放射性物質。草は生い茂り、川は何事もなかったかのようにサラサラと流れています。

 国道には、所々、放射線量の数値を知らせる電光掲示板があります。

 浪江町を抜け、南相馬市に入ると、ここは原発から20km圏外ということで、事務所などでは普通に仕事をしておられるように見えました。

 南相馬市のK寺さんは、震災後の漏電で、本堂庫裏を全焼。立派な梵鐘のみが残っています。
この辺りは、まだ除染作業が続いていました。

 

 「除染作業中」の赤い旗印が・・・写真 ↑

 今回の支縁の旅、最後は、本願寺派東北教区相馬組の中で避難区域に当たらなかった、南相馬市のJ寺さんにお参り。
 一同で勤行の後、J寺ご住職のお話を聞かせていただきました。 
 相馬組のどこのお寺もたくさんのご門徒さんが亡くなられています。J寺さんも同じ。まだ4名のご門徒さんが行方不明とのことでした。
 J寺さんでも、一同、心をこめて、仏教讃歌を歌わせていただきました。 歌いながら、私はまたも泣いてしまいました。

 J寺さん参拝の後は、常磐道(高速)に入り、北上。仙台空港から福岡行きの最終便にて帰路につきました。

 2泊3日の福島被災地支縁の旅は、こうして終わりました。
 今回、「東日本支縁の会 佐賀」の一員に加えていただき、私自身は、ただ同行したにすぎず、「支縁」(縁を支える)には、なっていませんが、私の心に、本当にたくさんの「ご縁」を賜りました。
 福島の皆様、お世話になりました。また、この旅をお世話いただいた団長ご夫妻はじめ、お世話になった皆様に厚く御礼申し上げます。
 有り難うございました  南無阿弥陀仏

 

 
 

 



 
 
 

 

コメント
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