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お寺のオバサンのひとりごと

心のマッサージにお寺へ行こう!

受験シーズン

2007年01月21日 | 仏教
 受験シーズンです。
 受験生はもちろん、受験生をおもちのご家族も何かと心落ち着かない日々をお過ごしのことと存じます。

 「合格できますように」と誰もが願うことです。そして、「仏」とは「私の願い事をかなえてくださる存在」と誤解されておられる方は、驚かれるかもしれませんが、浄土真宗では「祈願」を否定します

 何故なら、「祈願」には、自分の「欲」が混じり、それをかなえてもらうために自分が仏を利用しようとする・・・という本末転倒をまねくからです。

 本願寺に行かれたことのある方はお分かりでしょうが、本山には「お守り」「おみくじ」はありません。(販売していません)

 私が受験生の親だった時、もちろん「我が子が合格できればいいなあ」とは思いましたが、本堂に行って「合格できますように」とはお参りしませんでした。

 合格発表の日、もちろん凡夫ですから「心、波静か・・」とはいきませんが、「合格できれば、もちろんうれしいが、不合格でも、それはそれでよし」と思っていました。

 希望校への合格(ブランドを得る)が目的ではなく、我が子が人間として、どう成長してゆくかの方が大切だと思うので・・・

 例えば、我が子が合格できたということは、陰では不合格で悲しい思いをしている人が必ずいるわけで・・・

 合格できたなら、「ワーイワーイ」とただ有頂天になるより、「合格させてもらった自分が、合格できなかった人の分まで、しっかり学ぼう」と思いやれる学生であってもらいたい。
 不合格どころか、病気で或いは諸事情で受験どころではない若者も多数おられることに気づいてもらいたい。

 その上で、しっかり勉強頑張ってください 

 
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坊守研修会

2007年01月20日 | 仏教
 きょうは実に長い一日でした。
 早朝夫が出勤・・・というわけで、本日の法務は住職の代わりに全て私がお参りへ。午前中2軒、午後1軒。(午前中伺ったIさん宅で、ご遠方にお住まいの娘さんが私のブログを見てくださっているらしいと聞きうれしかった

 午後3時からはG寺さんで組(法専寺が属するお寺のグループ)の坊守(お寺の奥さん達)の研修会があり、法衣から私服に着替えて出席。

 親が子どもに家族の思いを伝えているか? 我々寺の者がご門徒さんや皆さんに、どう仏教をお伝えできるか?・・・文書伝道が主なテーマでした。

 成り行きで私がブログをしていることが、他寺坊守さん方に広く知れ渡ってしまいました。
 と、言うわけで、ご住職さん方にお願い 
 浄土真宗の教義上、私のブログに問題ありの時は、厳しくご指導をお願い申し上げます。

 ま、とにかく、お寺側も悩んでいます。時代の変化と共に、仏法を喜ぶ(生活の指針)とする方が激減。お寺も旧態依然としていられない。寺側に創意工夫が必要なことは皆、実感していて、ご住職方もそれぞれ頑張っておられる。

 それにしても世間の皆さん、仏法は聞かないが、占い師さんが言うことは、素直によく聞かれる。
 私なら仏さまの言うことは聞くけど、人の言うことを鵜呑みにしない。(ありがたい助言は素直に聞きますが・・)

 「世間虚仮 唯仏是真」 (世間のことは皆むなしい 仏だけが真実である)
聖徳太子の言葉です。

 
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人間関係の仏の智慧

2007年01月19日 | 仏教
 「人はこの世の愛欲のきずなにつながれて生きているが、つきつめてみると、独り生まれ、独り死に、独り来て、独りゆくのである。すなわち、人それぞれの行いによって苦楽の境界にすむ身になるのであって、すべては自分自身がその責任をおわねばならない。だれも、これに代わることはできないのである。」

 これは「仏説無量寿経」の一節です。(「仏説」とは、お釈迦様の説法のこと)

 対人関係に悩むのは、人間の常ですが、結局、「私は、私独りなんです」
 「私独り」とは、精神的な孤独を言っています。

 若い方へ

 よく「誰も私の気持ちをわかってくれない」なんて言いますが、当たり前なんです。家族と言えども、誰一人同じ感覚・感性を持ち得ない。みんな「私独り」、一人ひとり違うのですから。

 私の感情とピッタリ同じように相手に感じて欲しいと期待しても、まず無理。

 私が思うように相手が言動することを期待するから、腹が立つんですよね。

 仏教の智慧では、「あなたの孤独をしっかり受けとめなさい」ということ。

 その上で、私たちができることは、相手に素直に自分の気持ちを話すこと、相手の話を静かに聞くこと。
 
 完全に相手の気持ちを理解することはできないが、相手の気持ちに寄り添うことはできると思います。

 仏教での理想の人間関係は、見返りを期待しない「布施」の人間関係。
 「布施(この場合、相手を思いやる心の布施)」は施しをした方が「してやった」と恩着せがましく思わないこと。決して無理はせずに、できる時に、できることを相手にさせていただく。

 道徳ならば、「誰とでも仲良くしましょう」でしょうが、仏教ではそうじゃないと思う。

 誰とでも仲良くできない私を自覚する。苦手な相手とは、うまく精神的距離間を保って(心の中で「すみませんが、私はあなたが嫌いです。ゴメンナサイ・・」と手を合わせて)距離をおいて付き合う。
 距離を置くとは、シカトや冷たくあしらうことではありません。 特別近づかないけど、普通に接することです。

 生活の場に仏教の心があれば、対人関係の悩みも、ほんのちょっぴり楽になるように思います。
 
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宗派の違い

2007年01月18日 | 仏教
 他の宗教(キリスト教・イスラム教など)が、まず「神ありき」から始まる教えとするならば、仏教はまず「今ここに生きている私」から始まると思います。

 四苦八苦の現実の苦悩からの解脱、それが「悟り」。
 悟りに目覚めたものが「仏」。
 しかし、この世で現実に悟りを得、仏と成られたのはお釈迦様だけ。

 我々凡夫には、この世で、この身のまま、真理を「悟る」なんてことは、まず無理・・・(だからこの世では、悟りという結果ではなく、それに向かって生きる仏道が尊い「私の生きる道」だと思っています)

 お釈迦様は最初「悟り・仏法」を説くことをためらわれた。悟りの内容を話したところで一般の者には、わからないだろうと。

 しかし思い直して、たくさん「仏法」=悟りに到る道 を説いてくださった。
その人、その人に応じて仏道を説いてくださった。だから、たくさんの教法(お経)があります。

 その数ある教法の中から、自分だけでなく、人もが「救われる=悟りにいたる 仏道」を選びとって、勧めてくださったのが、各宗派の宗祖の方々。

 それぞれ仏法の解釈・味わい方があるとしても、ご本人たちは、あくまでお釈迦様の仏法を勧められたのであり、自分の新説をとなえて「教祖」になったわけではありません。

 だから、彼らは「宗祖」であって「教祖」ではないのです。

 私は浄土真宗だから、親鸞さん贔屓になるのですが、親鸞さんは極めて謙虚。
 人の批判ではなく、自分のことを「罪悪深重の凡夫」と自覚されていた。

 教えを請う人を「弟子」などと言わず、皆、仏の前では同朋・仲間だと思われていた・・・生活も取り繕うことなく、本音で生きられた。  ステキ

 その方が勧めてくださる教えだから、本物だと思います。素直に頭が下がります。

 
 



 
 
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「信じる」って?

2007年01月17日 | 仏教
 昨日ある生命学者の本を読んでいて思ったこと。
 たいていの日本人が「私は無宗教です」と言う場合2つに分類されると思う。

1,全ての宗教を軽蔑し、自分の理性だけで生きてゆけると思っている場合

2,宗教的考え方は人間に必要だと思うので、宗教を軽視するわけではないが、 特別「○教を信じています」と言えるほどじゃないので、取りあえず「無宗教」と言う場合

 そして、2の考え方の多くの人が「信仰」ということを誤解しておられる。

 仏教で言う「信」とは、「自分が信じる、信じない」という「自分の理性」を基準にした信ではありません

 むしろ、「自分で賢いと思っているその頭(理性)をちょっと空にしてみたら 見えてくる世界があるんじゃない
 
 「それは、自分で考えることを止める(人の言いなりになる)という意味ではなく、自分色の価値観に仏の無色透明な価値観があることを知ることで、自分の考え方が自由になる、豊かになる」という肩の力が抜けた「信」なんです。

 「自分で力んで一生懸命信じる」「何かよくわからないけど、取りあえず御利益がありそうだから信じる」「自分が信じているから、この教えだけが正しい」
 というのは自分の執着を離れていない。自分の考え・思いに固執するのは、仏教の「信」ではない。

 その正反対、自分の執着を離れたところにあるのが、仏教の「信」

 宗教すら、「自分の理性で理解したら、信じてやろう」と自分中心の考え方に執着している傲慢さ・・・
 
 自分のありのままの姿(心)が「恥ずかしい」と見えてきたところに、仏が寄り添ってくださると、受け取れる・・・自己執着の狭い価値観が、「仏」という広大な価値観に包まれる。その中で「私はわたしのままで生きてゆける」と自己再生される・・・

 仏教の信は、「自分の信仰」でなく、「仏」から気づかされる「信」なのであります。

 
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佐賀真宗伝道懇話会

2007年01月16日 | 本紹介
 「佐賀真宗伝道懇話会」とは、浄土真宗佐賀教区のご住職方が中心になって、現代社会に、いかに仏法を伝えるか 研修されている懇話会です。

 この会は、昭和60年に発足。 昨年20周年を迎え、昨年は、浄土真宗の教えを医療現場で実践されておられる医療関係者の公開講演会を開催されました。

 それと同時に、現代の世相を見たとき、本来、家庭でなされていた宗教的情操教育が忘れられ、失われてしまったことが、今の精神的荒廃を招いている一因ではないか・・・ということで

「伝えたい 残したい 私の一番大切な人に ~宗教的情操を育てるために」のテーマで原稿を募集され、このたび本を発行されました。

 「伝えたい、残したい、私の大切な 人に」というの題名の本です。
 
 私の童話もどき の創作話も載せていただいています(厚かましい私なので・・・
 
 書籍コードはついてないので、一般書店への流通はありません。
 もし(万が一?)購入希望の方がおられましたら、下記業者へFAXにてご注文ください。 本代は500円です。

 (株)古川総合印刷 FAX 0952-34ー5335 担当者 園田

*ご注文の際は、注文者の住所・氏名・電話FAX番号を記入 注文後、業者より注文確認があります  宅配便にて配送。受け取り時宅配業者が手数料含んだ代金を徴収

 なお、法専寺のご門徒関係者の方で購入希望の方は、法専寺までご連絡ください。まとめて注文購入いたします。

 
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千の風になって

2007年01月15日 | 仏教
 紅白歌合戦でも歌われていた「千の風になって」

 昨日叔父が法話の中で紹介していましたが、アメリカ同時多発テロの犠牲者追悼で紹介された 作詞者は不詳の詩。日本語訳は新井満さんです。

  私のお墓の前で 泣かないでください
  そこに私はいません 眠ってなんかいません
  千の風に
  千の風になって
  あの大きな空を
  吹きわたっています

  秋には光になって 畑にふりそそぐ
  冬にはダイヤのように きらめく雪になる
  朝は鳥になって あなたを目覚めさせる
  夜は星になって あなたを見守る
  (以下省略)

 浄土真宗で言う、「亡くなって、お浄土に往生し(往って生まれ)成仏(仏と成る)」とは、正にこういう感覚なんです。
 
 これを浄土真宗流に歌うならば、

  私は死んで「無」になったのではありません
  私はお墓に眠っているのでもありません
  私は 量り知れない智慧と慈悲の悟りを得て、今自由に飛び回っています
  煩悩をかかえ 苦しみ悩む あなたを救いたくて 
  あなたのそばで はたらき続けています

  私は いつもあなたの心にいます
  私は いつもあなたを心配しています
  私は あなたがあなたの人生をしっかり生き抜くように
  大きな願いであなたを包んでいます
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ご満座(まんざ)

2007年01月14日 | 仏教
 法専寺の御正忌報恩講も3日目の最終日(ご満座)を迎えました。

 お斎の準備のため、仏教婦人会副会長Iさんは、早朝8時前からおいでいただきました。Iさんは颯爽と自転車に乗られ、どう見ても10歳は若く見える。

 間もなく、もうお一人の副会長M・Sさんも駆けつけてくださった・・・

 この副会長さんお二人にも、もう20数年お世話をおかけして、私は甘えっぱなし・・・会長さん共々法専寺仏教婦人会の宝であります。
 きょうは午前11時から「子どもの集い」 
 出席してくださったお子さんが少なくて残念 お参りに来てくれたお子さんには、ご褒美のプレゼント用意しているのに・・・

 お寺まで足を運び、お参りくださった若いお母さんとお子さん、ようこそ 感謝申し上げます。

 きょうはたくさんの方にお参りいただきました。今年もおいしいお斎を召し上がっていただきました。

 午後は、住職叔父(法専寺衆徒・僧侶)の味のあるご法話。

 きょうの法話は「死の準備教育」について、と、本願寺出版社の「漫画 歎異抄」の紹介でした。

 きょうのお斎接待では、お当番で、また、自らすすんで駆けつけてくださったご門徒女性の皆様、本当にお疲れ様でございました 厚く御礼申し上げます。

 こうして、法専寺の御正忌報恩講は、たくさんの皆様のご協力で無事終了いたしました。

 本山では16日午前中まで、法要が続きます。
 
 特に1月16日の親鸞聖人祥月命日の前夜15日には(毎年)、通夜布教(オールナイトの布教・朝まで生 法話)があります。

 残念ながら、私はまだ参拝したことがないので様子がわかりませんが、徹夜で法話を聞く・・・すごいことです。

 

 
 
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2日目

2007年01月13日 | 仏教
 法専寺御正忌報恩講2日目は、住職が法話。
 法然さんと親鸞さんの仏教の違い等の話でした。

 きょうは法座終了後から仏教婦人会役員さんを中心に明日のお斎の下準備(昆布を巻いたり、レンコン、ゴボウをゆでたり・・・夕方6時前まで。
 
 例年は仏教婦人会会長さんが大根なますを一人で刻んでご持参くださるのですが、今年はご子息が亡くなられたばかり・・・
 今回も会長さん、法専寺のお斎の心配をされていましたので、あわてて「今年はご心配なさらないで、大丈夫ですから・・」と申しました。

 それで、私、大根刻む覚悟をしていたところ、副会長さんのM・Sさんが「私がうちの大根刻んで持参しますから・・・」と、きょう抱えて来てくださいました。有難い

 私は例年通り、お斎の食材買い物・配達手配と、金時豆を3kg圧力鍋で煮ただけ・・・後の調理はご門徒さんにお任せです。

 きょうの下準備も副会長さん2名では無理なので、きょうお参りの方に急遽応援をお願いし2名居残りしてご奉仕いただきました。有難い

 明日は9時からお当番のご婦人方が加わってお斎作りです。

 毎年とてもおいしい心のこもった精進料理ができあがります。ご門徒の皆さんのあたたかいお気持ちに支えられて伝統が続いています。
 
 若い方、ぜひ、先輩のお斎作りの技を引き継いでください。お願いします。

 ご門徒の皆さん、明日のお斎楽しみにご家族お揃いでお参りください
 お待ちしております
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1日目

2007年01月12日 | 仏教
 法専寺の御正忌報恩講一日目、無事終了しました。
 
「初日の坊守(私)の話も聞いてやらねば、かわいそう・・・」と心やさしいご門徒の方々がお参りくださいました。 

 寒い中お参りいただき、私の拙い法話をお聞きいただいた皆様、ありがとうございました。

 きょうは現代の心の諸問題について、仏教の観点からお話しました。
 
 仏教の平等とは、横並びの平等ではなく、金子みすずさんの詩のように、「みんな違って、みんないい」 等しく価値のある存在であることに気づく平等。

 「個」の尊重とは、自分の勝手気ままのことではなく、相手の個の尊重・一人ひとりの違いを認めあうことではないか・・・とお話しました。

 なお、この法要に際して数日前には総代さんM氏が境内清掃に来てくださり、昨日、きょうは、明後日の「お斎(とき)材料に」と数軒からお野菜をたくさん頂きました

 皆様のご厚意に感涙です ありがとうございます 

 明日は住職の法話です。引き続きのご参詣お待ちしております。

 
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