テレビで平林都という中年女性が依頼された会社の従業員にスパルタ教育をするのを見ました。汚ない関西弁で怒鳴り散らす姿はまともな神経の持ち主なら見るに耐えられないひどいものでした。テレビ局は何故あんな醜悪な場面を放送するのでしょうか。
平林がスパルタ教育をする目的は、直接的には平林自身の金儲けのためです。間接的には依頼した企業の従業員の接客を向上させて収益の増加を図るため、やはり金儲けのためです。簡単に言えば、平林は銭ゲバ、守銭奴です。
もちろん平林に限らず私たちもお金のために働いています。それは間違いのない事実ですが、私たちは仕事というものが人格をスポイルするものであること知っています。仕事というものの本質はパンのために自由を投げ打つことなのです。世界各地に共同体が形成されはじめた頃から一貫して、それが私たちの原点の認識です。
働かざる者食うべからずという諺は私たちの誰もが知るところであり、この諺を否定することができる人はあまりいないと思います。働くことは義務であり正しいことであり、働かないこと、怠惰なこと、放蕩することは正しくないこと、悪いことであると私たちの多くが思っています。これらの教条は、理論というよりも暗黙の前提のようなものになっていて、逆らうのは非常に難しい。
しかし平林のように金儲けの論理を振りかざして他人を強制し、人格まで否定する醜い姿を見て却って気づくのは、人はパンのみにて生きるに非ずということです。言うまでもなく新訳聖書の中の一文で、ドストエフスキーはこの言葉について、イエスが人間に自由を与えた言葉だと解釈しています。つまり、人間は生き延びるために生きているのではなく、何か別のものを求めながら生きている訳です。それは必ずしも聖書にある「神の言葉」ではなく、本能的な欲望であったり社会的な承認欲求であったりするでしょう。特に承認欲求については社会的に仕事をする上で欠かせないものであって、どういう分野、どういう方向で承認欲求を満たそうとするかが人間の個性となります。つまり社会の中で仕事をする意欲を持ち続けるためには個性を認めてもらう必要があります。
ところが平林のように一切の個性を認めず、頭てっぺんから爪先まで平林の言う通りにさせて、できない者には罵声を浴びせかけた上に人格まで否定するやり方だと、そんな目に遭いたくないという一点で仕事に臨むことになります。その結果として平林が教えるような作り笑顔の気持ちの悪い接客が生まれます。そしてそれを気持ち悪いと思わない上っ面だけを重視する経営者によって、従業員に無理強いする訳です。無理強いされて長続きする仕事はありませんから、その内みんな辞めていきます。
平林が従業員にスパルタ教育をしてあの気持ちの悪い接客を徹底させることで売上が上がるとすれば、それは客のレベルが低いからです。うわべしか見ない客が、笑顔にだまされ、言葉遣いにだまされて質の悪い商品をつかまされるのです。同じ商品を売るにしても笑顔で愛想よく売れば売れるというのは、低レベルの心理操作であり、詐欺みたいなものです。言うなれば、平林の教育は詐欺師を育てるためのものです。情緒的に不安定な人間は、騙されて買ってしまいます。
平林が人格否定のパワーハラスメントをしても訴えられずに食っていけるのは、それを容認してしまう社会に問題があります。実は、店員の笑顔に心を許してしまうという心理は、無愛想な態度を許さない不寛容の裏返しなのです。なぜ無愛想な態度を許さないかというと、自分が大事にされているという認識、つまり客としての承認欲求が満たされないからです。釈迦やキリストがあれほど説いたにもかかわらず、私たちは精神的な強さをいまだ身につけていません。だから店員の笑顔に騙されるし、平林のようなパワーハラスメントにも屈してしまうのです。人間はその程度のレベルでしかないということです。もちろんかくいう私も例外ではありません。
しかし、平林のように相手の個性や人格を一切否定するパワーハラスメントに対しては、少なくともそれはおかしいことだ、金の奴隷になるのは嫌だと抵抗することはできます。勤めている会社が平林のようなパワーハラスメントを生業とする犯罪者まがいの詐欺的なコンサルタントを招いたら、断固として不服従を貫かねばなりません。ああいった種類の人間を排除していく方向に進まないと、日本はおかしな国になってしまうでしょう。