「たちあがれ日本」の結党にあたって、石原慎太郎東京都知事は、日本の危機を強調したが、そこに立ち会ったマスコミはそれを一笑に付した。しかし、その怒りの声をいち早く上げたのは三島由紀夫であった。そときから何ら日本は変わっていないのである。三島は『英霊の聲』に収録された「『道義的革命』の論理」のなかで、平和ボケした為政者を痛烈に皮肉った。2・26事件で処刑された磯部浅一の遺稿を持ち出すことで、国を憂うる者の決死の覚悟と対比させたのである。そして、昭和11年に青年将校を裁いた者ちが、アクビをし、居眠りをして、青年将校に屈辱を与えたように、日本という国の無垢なる魂が汚され続けていることを、「昭和11年に出鱈目の限りをつくしていた連中の末裔は、昭和42年にも居眠りをし、昭和42年にも出鱈目の限りをつくしている。われわれのまわりは、仮寝の鼾に埋まっていて、豚小屋のようである」と書いた。そこに我々は、さらに付け足すべきだろう。現在ではその豚小屋も、かってなく臭気を発していると。今回、石原都知事が見るに見かねて応援団を買って出たのも、已むに已まれぬ思いがあったからだろう。「この国は本当にこのままずるずるずる落ち込んで、ジェットコースターの急降下じゃないけど、急降下の先に水落ちて上がってくりゃいいけど、上がってこない国に なっちゃうな」というのは、悲痛な叫びではないか。国を憂いて立つべきは、まさしく今なのである。石原が三島の怒りを理解したのは遅すぎた感もあるが、国民の一人として「たちあがれ日本」というメッセージに、どう応えられるかなのである。国の根本を否定する民主党政治にノンを言うだけでなく、行動で示さなくてはならないからだ。
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