これまでも多くの若者が祖国日本のために殉じたのであり、その精神は今後も語り継がれるべきだろう。橋川文三の「失われた怒りー神風連のことなど」を読んでいて、なおさらその思いを新たにした。私が丸山真男門下の橋川の見解を肯定するわけはないが、戦没者学生の『きけわだつみのこえ』に収録された田辺利宏の詩「夜の春雷」について触れている箇所は、通り一遍のサヨクの文章ではなかった。田辺は日大を出て福山市の女学校で3ヶ月間教師をし、それから応召され、昭和16年八月、支那大陸で戦死した。散華した戦友への鎮魂の調べは、どこまでも美しく悲しい。「彼らはみなよく戦い抜き/天皇陛下万歳を叫んで息絶えた/つめたい黄塵の吹きすさぶ中に/彼らを運ぶ俺たちも疲れはてていた/新しく掘り返された土の上に/俺たちの捧げる最後の敬礼は悲しかった」という詩の、どこにも祖国への憎しみや呪いの言葉はない。それと同時に橋川は「明るい三月の曙のまだ来ぬ中に/夜の春雷よ、遠くへかへれ/友を拉して遠くへかへれ」という結びの部分に、はぐらかされた気すらしたのだった。それはサヨクであることを己に課した橋川自身に問題があったからではないか。避けようがない虚無を目の前にして、一編の詩に己の生を昇華させるにあたって、最終的に脳裏をよぎるのは、命を捧げるにたる存在としての祖国日本なのである。
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