民主党にも自民党にも保守を名乗る人たちがいるが、保守と革新の違いを説明することは、簡単なようで難しい。 とくに、日本の場合は、西洋とは少し違っている。高坂正堯が日本の保守政治家について、「これらの人々は、保守というよりも実際家であった。実際に工業化をやるために必要な妥協、欧米のモデルを日本にいかに適用するかという、妥協の才能があった。それが日本の保守である」(『豊かさの試練』)と書いている。これに対して、「欧米のモデルに合わせて、日本という国がいかに遅れているか」(『同』)というのを力説するのが革新であった。革新政治家やインテリが、日本で個人主義が発達しないことを取り上げて、ことさら後進性を問題にしたのは、欧米のモデルを絶対視したからだ。ただ、そうした保守革新の対決の構図は、1980年前後に一時ぼやけたこともあったが、アメリカをモデルにした市場原理主義者が表舞台に出てきたことで、平成の世になってまた、過去の亡霊が徘徊し出したのである。高坂の言い方を借りるならば、彼らこそ革新なのである。にもかかわらず、勝手に保守を自称したのだから、混乱してあたりまえだ。どこまでも「実際家」であり、国益をまず第一に考えたのが日本の保守であるというのを、私たちはもう一度思い起こすべきではなかろうか。
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