朝日新聞の捏造は信念があって書いたのではない。戦後レジームや東京電力批判の空気を読んで、あえてそれに便乗しただけなのである。それを見誤ってはならないだろう。特定アジアに与するというのも、その程度の認識なのである。思想の科学研究会が昭和28年に発行した『現代人の生態ーある社会的考察ー』では、新聞記者も取り上げられており、それこそプラグマティズムの立場から、徹底的に糾弾している。新聞記者をまともな人間だとみておらず、「一日前に通告してもらえば、自分の見解を新しい主人の財布に適応させる自信のある人間だ」とのシンクレアの言葉を引きながら酷評している。主義主張がないのを問題視しているのである。そして、堀田善衛の『広場の孤独』のなかの「新聞記者というものは、十中八、九まで雑談をしているあいだは面白いが、議論をはじめると急に個性を失ってどこかに書いてあったらしい、四角四面なことを云い出すものである」という一文も紹介している。その新聞記者が表向き正義漢面をするようになったのは、テレビが登場してからであった。風見鶏のような論説であっても、まだまだ権威があったために、世の中から重宝がられたのである。いうまでもなくそこで支配的であったのは、戦後レジームの擁護者としての立場であった。そこを踏み外さなければ、無冠の帝王でいられたのだ。しかし、世の中は大きく変わった。ネットが普及したことで、新たな世論が形成されるようになり、底の浅い主張はもはや顧みられなくなったのである。
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