マスコミがいい加減なのは今始まったことではない。それでも以前は、自分の行っていることに、ある種の後ろめたさがあった。スキャンダル好きの読者に媚びを売ることを、恥ずかしいと思っていたからだ。
それがいつの間にやら、正義面する人間が多くなった。左翼の理論を掲げての体制批判ともなれば、あらゆることが正当化できるからだ。山本夏彦に「諸職それぞれ『恥』あり」(『死ぬの大好き』に収録)というエッセイがある。
山本は「カメラマンはスキャンダルの主を追って三日三晩寝ずの番して首尾よく盗むどりに成功すると自慢である。こんなことが男子一生の仕事かと、ためしに言ってみてもけげんな顔をするだけである」と書いている。
それは何もカメラマンを批判しているわけではない。「その写真を待ちかねたデスクは、でかしたでかしたと共に喜ぶ。人間は度しがたい醜聞好きだからその劣情につけこんで売る商売があっても仕方がない」からである。
山本が問題にしたのは「昔は新聞記者には家があっても貸してくれなかった。娘がいても嫁にくれなかった。『羽織ゴロ』と言って堅気の人はうしろ指さした。だから内心忸怩たる思いをした」という謙遜さが失われたからである。
「人になくてはならないのはこの思いである」との山本の一言は重い。調子に乗って正義面するコメンテータを見ると、嫌な気がするのは、そのせいなのである。そんな商売もあってもいいが、まともな人間の部類に属するわけではないからであり、そこに人間としての陰影の深さを感じるからである。