ついに六月には明の使者は釜山を発ち、対馬に上陸した、ここで朝鮮の使者を待った、直に朝鮮から正使、副使も対馬に到着した。
七月初旬についに明と朝鮮の使者は名護屋に着いた、ここからは船に乗って瀬戸内海を堺の湊まで登っていくのだ、
秀吉は京都伏見城で待っているとのことだ。
今の秀吉の慰めになるのは、当然だが秀頼である
こんなにも幼い小さな人間、この小さな人形のような人間が自分の意思で動いて居るのが不思議に思えてくる。
その小さな人間が、ニコニコ笑いながら自分に向かって両手を広げて歩いてくる、「ああ・・・あぶない これ転ぶぞ、ゆっくり歩け」
ハラハラし通しだ、ハラハラしてもこの幸福感はたまらない
これが幼子から、罪のない女たちを何十人も一度に殺害命令を出した男だとは思えない、人間とはなんと身勝手な生き物なのか。
だが、この幸せな時間も僅かである、秀吉には問題が山積みになっている
若手の官僚は大勢いるが、石田三成、長束正家、増田長盛のような切れ者は少ない、
秀吉自身かってのような切れ味がなくなり、間も長くなっているので若い官僚はじれながらも、次の言葉を待つ。
突然、「西の丸じゃ」などと言い出し、側室のもとに一目散に向かうこともある、政務はそこで終わってしまう。
秀吉のストレス解消、暇つぶしには側室を訪ねてリラックスする時間がもっとも多かった
もはや若いころのようにひたすら子作りに励むこともなく、そのような欲望も失せていた、唯一例外が二人の子を産んだ淀殿であった
秀吉にとって、間違いなく秀吉の子を産むことが出来る女であった
3人目、4人目も産んでほしいと秀吉は望むが、産後でもあり、体調が悪いのかこの頃の淀君は不機嫌なのである、
怖い者は正室北政所だけの秀吉であるが、最近は淀殿にも、腫れ物に触れるように気を使う、それは世継ぎの生母の特権であった。
だからこそ10名ほどいる若い側室を訪ねて、膝枕でうたたねするのが束の間の楽しみである、その側室たちも30前後になったが、もはや若い側室を囲う気も失せている。
秀吉の退屈を紛らす別の方法は、お伽衆と呼ばれる、退任した大名や武士、僧侶、商人、歌人茶人、芸人を招いて話すことであった。
その中には応仁の大乱の立役者、細川、山名の子孫、南北朝時代の名家赤松などもいる
秀吉と同時代の戦国の世を生きてきた、織田信雄、織田長益、織田信包、
宮部継潤、六角義賢、斯波義銀などと語る時は、若く盛んな日々を思い出して血が沸き上がってくるのだった。
また一芸に秀でて楽しませてくれる者もいる、
曽呂利新左エ門は大坂堺の鞘師であったが、知恵がまわり、話も面白く頓智があった、今でいえば「お笑い芸人」「落語家」のような存在である
文化教養の際もあり茶から和歌までたしなんでいる、憂鬱なときには大いに喜ばせてくれるので、秀吉から特に褒美をいただいた者である。
秀吉の傍に仕えて祐筆(書記官)であった大村由己(ゆうこ)は秀吉の記録「天正記」を江戸時代に入って書いた人物である
西笑承兌(さいしょうじょうたい)は伏見城下に住み、秀吉に特に近い僧侶でお伽衆であるが政治顧問でもあり、安国寺恵瓊同様、外交僧でもあった
朝鮮や明との交渉にも活躍している。 後年は徳川家康に仕える
七月早々、名護屋に着いた明国、朝鮮の使者は京の秀吉の返事を待っている
ところが15日になって大坂から名護屋へ早馬がやって来た
「京、大坂を中心に大地震が起きて伏見城も半壊、女中衆も家臣も死者が出たが太閤殿下はまもなく救い出されて無事である、大坂城は被害なし、
だがこの状況では、使節との面会はいつになるかわからないので、明らかになるまで使者は名護屋に留まる様に」との伝言であった。
慶長伏見大地震と呼ばれる地震である、7月13日は新暦の9月5日、秋が始まるころであった。 M7.5と言われている
方広寺大仏殿、東寺などが倒壊、伏見城天守も崩壊した
名護屋への第二報が届いた、「伏見城では武士や女中数百名が死傷した、大坂、堺でも多くの家が倒壊したので、播磨から近江までの諸大名は帰国して再建にあたること、
別紙に書いた通り労役を割り当てられた人数を各大名は、京に送ること」
秀吉は復興のために、関東、北陸の大名にも復旧工事を割り当てた。
使節団は8月、ようやく堺まで来たが、面会場所の京はまだ復興途中であったので、大坂城で9月早々に対面することが決まった。
これ以上遅くなると、使節団が玄界灘を渡ることが困難になる
大坂城では、明国の降伏文書(偽物)を見て、秀吉は終始満悦であった
「これからは敵味方の関係は解消して、勘合貿易を再開して互いに栄えればよい、南蛮人に付け入る隙を見せないように力を合わせることも必要だ」
そして朝鮮使節には「帰国したら、直ちに皇子を送ってよこせ、その王子に朝鮮南部四道を任せるのだから、不足はないであろう」と自信満々に言った
翌日は大坂、堺を見学させるつもりだったが、どこも地震の後始末に追われていたし、使節団も予定より数か月遅れたため、急ぎ帰国したいと申し出たので
翌日、堺で僧侶に歓迎させて一晩泊まり、翌朝、堺からそのまま対馬へと向かうことになった。
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