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「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた 武田家 40

2024年03月13日 19時55分44秒 | 甲越軍記
 武田大膳大夫兼信濃守晴信は国務を執り、国法を改め、賞罰を厳格に行い、領民のご苦労を慰撫して育成にも力を注を注いだ、その甲斐あって国内は平穏に戻った。

晴信の室は京の公家伝宝輪三条左大臣藤原公頼公のご息女、一昨年輿入れしたが、ほどなくご懐妊され諸寺諸山に安産祈願を申し付けたところ、かいあって五月に男子を出産された。
これで武田家末永く安泰と、長臣諸士の喜びは尋常でないほどであった。
さっそく曽根周防守の妻を乳母と定めて日々足を運ばせた
晴信のわが子への寵愛限りなく、若君成長の後、太郎義信と称する。
同じころ駿府の今川義元の室である晴信の姉(北の方)も同年に男子を出産、後の上総の介氏真である。
武田、今川連枝の間ゆえ互いに福を喜びあった。

信州に村上左衛門尉義清、諏訪信濃守頼茂(一般的には頼重だが、この書は茂を採用)、木曽左馬頭義昌、小笠原大膳大夫長時という四家がある。
武田家とは水と油の関係で幾度となく戦を繰り広げて来た、中でも小笠原は武田とは同じ流れで、新羅三郎義光の孫、逸見冠者義光の二男、加々見次郎遠光の子、相模守清長が小笠原を称した。
それより十五代小笠原修理大夫長宗が信州深志(*松本市)に住んだが、その子が長時である。
この代になり、始めて武田と小笠原は不仲になった、信虎は仁無き人ゆえ容赦なく小笠原を攻め滅ぼそうと幾度となく戦になったからだ
しかも信虎は仁はないと言え勇猛狂気であるから、戦うたびに小笠原の領地は侵略されていく
どのようにして武田家を滅ぼそうかと思い悩んでいる時、武田家の父子の不和内紛を聞き、晴信が信虎を駿府に追い出し武田家中二分した今こそ時至れりと思い、諏訪頼茂に使者を送り
「諏訪殿は武田信虎の婿殿とはいえ、あの暴虐無道の信虎の行いは畜生にも劣るものである、それが息子の晴信に駿府に追いやられた
晴信もまた孝心を持たぬ非道の輩であれば、今こそ我らが力を合わせて武田を滅ぼす絶好の機会である、滅ぼした暁には両家で武田領を二分しようではないか」
これを聞いて頼茂はたちまち同意して兵を起こすことを決めた、この時、同心すべき村上、木曽は国内の騒動を鎮めるために出陣できなかった
諏訪と小笠原合わせて九千六百余騎、天文七年七月上旬に甲州に乱入して、民家を焼き、青稲を刈り取り鎌梨河原、韮崎辺りまで進出してきた。

甲府館では、このとき七夕の祝いを行い、家臣らの礼を受けている最中に報が入った。
晴信は敵の侵入を聞いても少しも慌てず「敵は両家合わせても一万には及ぶまいが、甲州が二つに割れて一致せずと見ての乱入であろう、ならばあえて我らは信虎に同心していた地侍は今回は使わず、かねてより予に忠誠を誓っている腹心の者だけで両家を迎え討とう」と言って、六千余騎を率いて甲府を出立した。



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