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「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(186) 甲越 川中島血戦 13

2024年08月31日 09時15分51秒 | 甲越軍記
 天下は群雄が割拠して互いに争い、中でも東に北条早雲、今川義元、上杉憲政、織田上総介、西に大内義興、尼子、大友、島津、竜造寺の諸大将武威を轟かして隣国を併呑する。

中にも武田大膳大夫晴信は、智勇兼備の名将なれば甲州一国に満足するわけもなく、諏訪頼茂、村上義清を倒し、残る小笠原長時、木曽義昌を討って信濃を平定し、上州の上杉、相州の北条、駿州の今川らを滅ぼし、関東甲信に根を張り太い幹を作れば、上方に打って上り、四国、九州までも切りしたがえると思えば、天文十七年五月七日、甲州を発ち、信濃国に向かい小笠原長時を攻め滅ぼさんと、諏訪に於いて勢を二つに分け、高遠、松本の抑えとして、士大将、馬場民部少輔、日向大和、小宮山丹後、穴山伊豆、小山田左兵衛尉、長坂左衛門尉を充て
旗本をもって、保科弾正忠政景の砦に攻め寄せれば、砦の大将、岩城五郎左衛門は必死に防戦したが、力及ばず力尽きて砦を捨てて出奔した

続けて山の上の砦を攻めあがる、砦の将、沼大隅が打って出て武田の先兵を打ち崩したが、二陣の春日左衛門に横を突かれて砦の将兵の多くを討たれ、もはやこれまでと砦に火を放ち、主従三十余人煙の中に切腹する

続いて山田喜藤太の砦を攻めれば、喜藤太も討ち死にとなる
武田方は二日の間に三つの砦を攻め落とし、この勢いに乗って次は高遠の城に攻め寄せようとするところ、内山城の守将、飫富兵部少輔より早馬が来て「長尾三景虎が小県に出陣、その勢い盛んなリ、急ぎ兵を返して小県に向かうべし」との知らせが入った
旗本勢は、高遠攻撃をあきらめて、和田峠を越えて、長窪筋より内山城に着いた
此度の越後勢は初戦の手合わせの時より、遥かに大軍勢にて押し寄せ、村上の旧領戸石辺りを放火、狼藉を繰り返し武田勢を挑発した

ここに内山城に集結した武田勢も、大将晴信のもと発進して筑摩川を挟んで睨み合う
まずは越後勢の先陣より北条丹後守、竹俣三河守の足軽、川に押し出して鉄砲を撃ちかける、これに対応して武田方も日向大和守、小幡上総守の足軽勢これに掛けあわせ、一うちのあと急ぎ備えに戻る

越後勢は手を変えて、雑兵どもが甲州勢を「臆病者、腰抜け」と罵って敵を引き出す策に出たが、甲州勢はこれに反応せず、ただひたすらに陣を固めて越後勢川を渡らば、これを討つの姿勢で微動だもせず

武田勢も、ただ守りを固めているばかりではなく、浅利式部丞、長坂左衛門、勝沼入道、市川梅印、真田弾正、山本勘助に命じて敵陣を斥候させ、敵の虚を突こうとすれども、互いに知謀の名将同士であれば少しの隙も無く、互いに睨み合うのみであった。

六月四日より、十五日まで睨み合うが、ただいたずらに日を重ねるのみ
景虎は晴信が大軍にも関わらず、一向に誘いに乗らず陣を固めているのは、我を焦らせ、誘い出し一気に押し込める策略であると悟り、一計を謀る
越後勢、十六日朝に、にわかに陣払いをして越後に向かって去る様子に、武田勢の諸将は色めき立ち、いまこそこれを背後から攻めかける時なりと騒ぎ立てる
晴信、越後勢の退陣を見るに、備えは隙が所々に見られ、備えも締まらず追い打ちすればたちまち越後勢四散する様子である
しかし、よくよく探り見ると、館、長尾遠江、新発田尾張を右に、直江山城、黒川備前を左に備える陣構えは、遁甲八陣の備えと見破り、迂闊に攻めかかれば、たちまち屈強の備え取って返し、はやる甲州勢は取りこめられて討たれる陣形なりと晴信は見破った
ざわめく武田勢先陣衆に向けて、むかで衆十二騎を走らせ、さらに真田弾正忠を添えて「決して備えを騒ぐべからず、敵を追うことなかれ」と厳重に申し付ければ、逸る若党らは歯ぎしりして悔しがるが大将の厳命とあれば仕方なし

景虎は、甲州勢が謀りにかかるを待ち受けたが、甲州勢はついに動かず
武田晴信とは軍慮に明るき大将かな、なかなか容易ならぬ敵であると大いに感心した
もはや何をなすこともなく、越後へと去って行った。

晴信も、これを見て陣払いして碓氷峠より松井田に出て、近辺を放火して甲府に帰還した。







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