食事の量という問題は、精神性の目覚めによって意識に登場してくるような気がします.人間のように満腹になってもまだ食べることが出来る(?)という脳の構造を持っていない動物達は、自然の生理機構のコントロールにしたがって生活しています.というより食べるものが得られない場合は餓死という過酷な食環境の中でも、満腹中枢が満腹という指令を送れば眼前に食べ物があっても食の動機を失うという生活をしています.
人間の大脳は人間が食によって獲得したものですが、そのことが人間を他の動物達から画すことになりました.人間は大脳によって生理機構がもたらす機序とは別に自分をコントロールできるようになったのです.複雑な脳を持つ動物の誕生です.生物としての脳と人間の特徴である発達した大脳と、時には矛盾して働かせることも出来るようになりました.そしてその営々たる努力の結果、皮肉なことに自分の食事量もわからないことになりました.何という体たらく!
「体の声を聞こう!」という叫びは、こういった事態に対する反省です.体の声とは生物としての脳の判断です.全身の細胞から集められた情報をもとにした体の状態に対する判断です.全身の細胞の声を聞かなければなりません.これこそが「聞け!わだつみの声!」です.脳の仕組みと機能をよく理解しなければなりません.そしてコントロール機能のない大脳などという不完全なものに支配されてはいけません.大脳も必ず規制するものがあるはずです.それが何か、身体性から言えば小脳(生物としての脳)、精神性から言えば食(波動の質)ということになります.こういうわけで宗教を含む精神的修養の道は、全てその食に言及することになりました.精進頭でないと人間性(大脳)をコントロールできないからです.宇宙の真理の波動を一様に誰もが食しても、認識判断にまで到らないからです.本来の精進料理とはそういうために発展してきました.
そこで我等マクロビオティックの徒も、「朝に道をきかば・・・・」と一念発起、マクロビオティックの考えに沿って食事をしてきました.それぞれの大脳判断に従って食事をするわけです.ですから自由な精進(?)料理が千差万別、生まれてくるわけです.マックロ(真っ黒)ビオティックやマックラ(真っ暗)ビオティック!!そこに戒律(ガイドライン)が必要であることを実感します.それで桜沢先生や久司先生に教えて頂くわけです.私達は先生のお蔭で安全の判断基準を知りました.でもどうしても自分で知らなければならないことがやってきます.自分の個々の食事内容と量です.自分の体の声です.
内容は量より教えていただきやすいものです.でも量となると最初はお手上げです.皆さんはどのようにお考えですか.私は量の問題に突き当たると必ず心の底から湧き出す声があります.それは「一日に玄米四合と味噌と少しの野菜を食べ・・・・」 皆様ご存知の宮沢賢治の一節です.これが当時の貧しくも体を張って暮らした男が食べられれば良いと考えた食事量ならば、桜沢先生の七号食や五号食を、或いは三号食を適当にお手本にするより分かりやすいような気がします.しかし女だからと三合に減らしても、一日に三合食べるのはなかなかです.現代の食事にはおかずが多過ぎます.まあその多様性が現代社会のグローバル化を推し進めているのかもしれませんが.おかずの少なさも定着性の目安かもしれません.グローバリゼーションは身土不二の対立語でしょう.
私達は様々な自分を取り巻く環境を勘案して、自分の食事量を毎日決めています.そして自分のなりたいように自分を決めているわけです.明日の自分を楽しみに玄米と味噌と野菜の量を加減して今日の食事をいただきたいと思っています.
人間の大脳は人間が食によって獲得したものですが、そのことが人間を他の動物達から画すことになりました.人間は大脳によって生理機構がもたらす機序とは別に自分をコントロールできるようになったのです.複雑な脳を持つ動物の誕生です.生物としての脳と人間の特徴である発達した大脳と、時には矛盾して働かせることも出来るようになりました.そしてその営々たる努力の結果、皮肉なことに自分の食事量もわからないことになりました.何という体たらく!
「体の声を聞こう!」という叫びは、こういった事態に対する反省です.体の声とは生物としての脳の判断です.全身の細胞から集められた情報をもとにした体の状態に対する判断です.全身の細胞の声を聞かなければなりません.これこそが「聞け!わだつみの声!」です.脳の仕組みと機能をよく理解しなければなりません.そしてコントロール機能のない大脳などという不完全なものに支配されてはいけません.大脳も必ず規制するものがあるはずです.それが何か、身体性から言えば小脳(生物としての脳)、精神性から言えば食(波動の質)ということになります.こういうわけで宗教を含む精神的修養の道は、全てその食に言及することになりました.精進頭でないと人間性(大脳)をコントロールできないからです.宇宙の真理の波動を一様に誰もが食しても、認識判断にまで到らないからです.本来の精進料理とはそういうために発展してきました.
そこで我等マクロビオティックの徒も、「朝に道をきかば・・・・」と一念発起、マクロビオティックの考えに沿って食事をしてきました.それぞれの大脳判断に従って食事をするわけです.ですから自由な精進(?)料理が千差万別、生まれてくるわけです.マックロ(真っ黒)ビオティックやマックラ(真っ暗)ビオティック!!そこに戒律(ガイドライン)が必要であることを実感します.それで桜沢先生や久司先生に教えて頂くわけです.私達は先生のお蔭で安全の判断基準を知りました.でもどうしても自分で知らなければならないことがやってきます.自分の個々の食事内容と量です.自分の体の声です.
内容は量より教えていただきやすいものです.でも量となると最初はお手上げです.皆さんはどのようにお考えですか.私は量の問題に突き当たると必ず心の底から湧き出す声があります.それは「一日に玄米四合と味噌と少しの野菜を食べ・・・・」 皆様ご存知の宮沢賢治の一節です.これが当時の貧しくも体を張って暮らした男が食べられれば良いと考えた食事量ならば、桜沢先生の七号食や五号食を、或いは三号食を適当にお手本にするより分かりやすいような気がします.しかし女だからと三合に減らしても、一日に三合食べるのはなかなかです.現代の食事にはおかずが多過ぎます.まあその多様性が現代社会のグローバル化を推し進めているのかもしれませんが.おかずの少なさも定着性の目安かもしれません.グローバリゼーションは身土不二の対立語でしょう.
私達は様々な自分を取り巻く環境を勘案して、自分の食事量を毎日決めています.そして自分のなりたいように自分を決めているわけです.明日の自分を楽しみに玄米と味噌と野菜の量を加減して今日の食事をいただきたいと思っています.