先日お話しました本が出版社から届きました.発行は今月の25日となっていますので、いつ頃店頭に並ぶのか分かりませんが、25日は主人の誕生日、私は図らずもプレゼントをしたということになりましょうか?
書名は『顔でもわかる健康チェック』、望診法の第2弾ですが、私としては心身の調整法、体調の回復法のまとめといった気分です.要するにマクロビオティックといったって普通のことを普通に(宇宙の法則に従って)展開していくだけなんです.魔法の杖なんてこの世にもあの世にもありません.魔法の杖のように見えるとしたら、それは目が曇っているからなんです.あるもの(真実)を見ないで、希望(都合のよいこと)をのみ見ているからなんです.
人間に生まれてきた世は何をする所かというと、判断力の鍛練の場です.この世はちょうどターニングポイントなので、飛躍的な成長を遂げることが可能です.だから昔から人生を奇妙でありがたいものとして捉えてきました.何が奇しくも妙なるかというと、宇宙の法に触れるチャンスが与えられるからなんです.そんな奇妙というものが如何にありえないものなのか、言っても言っても言い足りないその確率を例えて恒河沙、阿僧祇、那由他、不可思議などという仏教用語ができたのです.
本当は病気も判断力の鍛錬のきっかけでありがたいものなのです.だから死の一瞬までそのチャンスを頂いて、何がしかの進歩をして得るところを確認すべきなんです.得心して死ぬべきなんです.だからこそ他を殺してはいけないんです.動物界では食べるために殺してよかった生命同士ですが、人と生まれたからには殺してはいけません.でも動物と同じ体をもつ悲しさ、殺さずには生きていけません.だからこそ勿体無い、ありがたいんです.なるべく少なく殺生をするという心が倹約です.私たち日本人は代々お米一粒を大切にするよう教えられてきました.ありがたいことだと思います.
毎日のように殺人事件のニュースが届く世の中になりました.誰でもよいから道連れに・・・・・などという不心得も増えました.殺してはいけません.他人のチャンスを奪ってはいけません.子供の頃読んだ『修養全集』という本があります.その中に羊飼いの男の話が載っていました.その男は前世が分かる能力をもっていて、その男が言うには『自分は前世も前々世もその前もずっと羊飼いだった.だから現世で羊飼いをしているからまた来世も羊飼いに生まれるだろう.』でもその男は次は羊に生まれました.そして羊飼いに飼われてされる運命となりました.
この本はお釈迦様の解説がついた画期的(??)な本ですが、お釈迦様のお話によるとその羊飼いは七世前に羊飼いをしている時小さな蜘蛛を踏み潰しそうになった時助けてやったことがあったために、その次の世も次の世も羊飼いに生まれたのでした.そしてチャンスを七世も与えられたのに考えることなく同じことを繰り返して生きたので、それから七世羊に生まれなければなりませんでした.
動物に生まれると自分の波動を変えるという観点からは非常に困難な目にあいます.動物は、自分の運命というべきか状況というべきかは別として、たいてい受け入れる以外の選択肢はありません.そういう心理波動なんです.それ以上のものを知りたいとも、自分を改革しようとも思いません.そしてその波動が向上するか堕落するかは、私たち人間が死んだ後の状況と同じだと私は考えています.持っている波動と同調する波動に拾われるんです.その時自他はありません.拾うほうも拾われるほうも同じ条件です.誰に拾われるか??お釈迦様に拾われるか、イエスに拾われるか、日蓮上人に拾われるか、アマテラスオオミカミに拾われるか・・・・・・或いはこの世近くを彷徨っている霊魂(?)に拾われて更に重い心を引きずってしまうか・・・・・これはひとえに私達の心得たもの次第です.
少なくともこの地球を含む生命の環境では、人の世だけが波動としての飛躍のチャンスを与えられているような気がします.人生とは本当にありがたくもったいないものです.私たちも毎日小さな蜘蛛を助けてやらなければなりません.善業を積む以外、再び人間に生まれるために出来ることはありません.そして日々判断力の鍛錬に励みたいと思います!!!
書名は『顔でもわかる健康チェック』、望診法の第2弾ですが、私としては心身の調整法、体調の回復法のまとめといった気分です.要するにマクロビオティックといったって普通のことを普通に(宇宙の法則に従って)展開していくだけなんです.魔法の杖なんてこの世にもあの世にもありません.魔法の杖のように見えるとしたら、それは目が曇っているからなんです.あるもの(真実)を見ないで、希望(都合のよいこと)をのみ見ているからなんです.
人間に生まれてきた世は何をする所かというと、判断力の鍛練の場です.この世はちょうどターニングポイントなので、飛躍的な成長を遂げることが可能です.だから昔から人生を奇妙でありがたいものとして捉えてきました.何が奇しくも妙なるかというと、宇宙の法に触れるチャンスが与えられるからなんです.そんな奇妙というものが如何にありえないものなのか、言っても言っても言い足りないその確率を例えて恒河沙、阿僧祇、那由他、不可思議などという仏教用語ができたのです.
本当は病気も判断力の鍛錬のきっかけでありがたいものなのです.だから死の一瞬までそのチャンスを頂いて、何がしかの進歩をして得るところを確認すべきなんです.得心して死ぬべきなんです.だからこそ他を殺してはいけないんです.動物界では食べるために殺してよかった生命同士ですが、人と生まれたからには殺してはいけません.でも動物と同じ体をもつ悲しさ、殺さずには生きていけません.だからこそ勿体無い、ありがたいんです.なるべく少なく殺生をするという心が倹約です.私たち日本人は代々お米一粒を大切にするよう教えられてきました.ありがたいことだと思います.
毎日のように殺人事件のニュースが届く世の中になりました.誰でもよいから道連れに・・・・・などという不心得も増えました.殺してはいけません.他人のチャンスを奪ってはいけません.子供の頃読んだ『修養全集』という本があります.その中に羊飼いの男の話が載っていました.その男は前世が分かる能力をもっていて、その男が言うには『自分は前世も前々世もその前もずっと羊飼いだった.だから現世で羊飼いをしているからまた来世も羊飼いに生まれるだろう.』でもその男は次は羊に生まれました.そして羊飼いに飼われてされる運命となりました.
この本はお釈迦様の解説がついた画期的(??)な本ですが、お釈迦様のお話によるとその羊飼いは七世前に羊飼いをしている時小さな蜘蛛を踏み潰しそうになった時助けてやったことがあったために、その次の世も次の世も羊飼いに生まれたのでした.そしてチャンスを七世も与えられたのに考えることなく同じことを繰り返して生きたので、それから七世羊に生まれなければなりませんでした.
動物に生まれると自分の波動を変えるという観点からは非常に困難な目にあいます.動物は、自分の運命というべきか状況というべきかは別として、たいてい受け入れる以外の選択肢はありません.そういう心理波動なんです.それ以上のものを知りたいとも、自分を改革しようとも思いません.そしてその波動が向上するか堕落するかは、私たち人間が死んだ後の状況と同じだと私は考えています.持っている波動と同調する波動に拾われるんです.その時自他はありません.拾うほうも拾われるほうも同じ条件です.誰に拾われるか??お釈迦様に拾われるか、イエスに拾われるか、日蓮上人に拾われるか、アマテラスオオミカミに拾われるか・・・・・・或いはこの世近くを彷徨っている霊魂(?)に拾われて更に重い心を引きずってしまうか・・・・・これはひとえに私達の心得たもの次第です.
少なくともこの地球を含む生命の環境では、人の世だけが波動としての飛躍のチャンスを与えられているような気がします.人生とは本当にありがたくもったいないものです.私たちも毎日小さな蜘蛛を助けてやらなければなりません.善業を積む以外、再び人間に生まれるために出来ることはありません.そして日々判断力の鍛錬に励みたいと思います!!!