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祖父の被爆体験から思うこと

2012-06-10 08:24:33 | マクロビオティック
私の祖父は深江素太郎と言います。先日実家の母の七回忌を済ませましたが、同時に祖父の四十七回忌のお祀りをしました。祖父は明治18年生まれ、昭和39年に亡くなりました。大村師範学校を出て教職に就き、祖父の母校でもあり私の母校でもある猶興館にも赴任したそうです。体育が専門で『自分は大して頭が良い方ではない・・・・』と述懐していましたが、祖父は平教員を8年余り経験した後若くして校長になり、以後退職するまで数十年校長として各地に赴任しました。

私の知っている祖父は曲がった事が大嫌いな厳格で優しい人でしたが、周囲は教え子ばかり・・・・・恐れ(?)敬われていました。国策の松浦線の開通のためには畑の真ん中を提供しました。その線路を近道とばかり歩いている人を見かけでもすると、誰彼なく叱り飛ばしていたそうです。今でも時々昔の祖父を知っている方から聞く思い出は、『安満岳の絶壁での逆立ち』のお話です。周囲の風景は違いますが、まあ東尋坊の絶壁(?)とでも言ったようなところです。『手さえつけるなら何処でも逆立ちは出来る』と言っていましたが、器械体操の名手でした。

当然体は非常に頑健でした。これは断言できます。祖父は養子で祖父の父は成田紋左衛門と言って松浦藩の剣道指南役をしていました。身体を鍛えるのが仕事のような家で育ったのですから、確信しています。その曾祖父は93歳で没しています。晩年の祖父の目標は、曽祖父の歳を超えることでした。私が高校生になった頃で詳しく覚えていませんが、90歳を超えることを目標にした長寿の会のようなものがあって、会員証(?)のバッジを見せてもらったことがあります。その頃の祖父は体力に不安があったに違いありません。孫の私にはわかりませんでしたが、日々衰えていくのを実感していたと思います。

何も知らなかった孫の私には、突然のように祖父はなくなりました。夏休みになって離れて暮らしている父母のもとに帰ったばかりのある日、祖父が78歳で亡くなりました。後で思えばお医者様の往診も、ウナギを持ってきたり体力の付くものをお土産にくださったり、とり立てて治療もないおかしな往診でした。祖父も私が出かけるときまでは寝たり起きたり・・・・・、孫娘の目には『そんなもの』でした。身体に出没する紫斑を見せて、『おかしなものばな、一週間もすると消えてしまう・・・・』と言ってました。唯一人すべてを知っていた祖母に後で教えてもらいましたが、祖父は紫斑病、つまり白血病だったのです。

祖父は長崎に原爆が投下されて3日目に、教職仲間の友人達を探しに長崎に行きました。そして惨状を目の当たりにしました。出来得る限りの事をしたと思います。放射線被爆の事は当時だれも知らなかったのですから。多くの日本人が今では防護服を着るところを、無防備で作業をしたはずです。祖父もその一人です。人力の意味すらない程の被爆をした多くの方々が無残にもすぐに亡くなりました。やっと生き延びることが出来たこれまた多くの方々は、ずっと床に就いたまま殆んどが亡くなりました。やがて被爆症を発症した方々が、長崎や広島の被爆者となりました。そして祖父らのように、それほどひどい被爆ではなく体力もあった人々は、年齢とその体力に応じて影響を受けたのだと思います。

現在私達が遭遇している福島原子力発電所崩壊による放射線被爆の問題は、祖父の被爆と似ていると思います。どれくらいの放射線量なら安心か?????毎日そう言った類の線引きが問題となっていますが、本当は被爆する側の問題だと思います。人によって体力が違うのですから。そしてマクロビオティックの徒なら、答えは分かっていますよね。体力というものが転がっているわけではありません。免疫力という食べ物があるわけではありません。それは私達が日々繰り返している食べ方にあり、自分の食べ方によって体の機能をどんなふうに働かせどんな体力を得、それを維持するのか・・・・・

それでもいつかは私達は自分の肉体を捨てる時が来ます。そのとき被爆症だとうろたえないよう、放射線量の増えた(?)今日を生きている意味を考えておきたいと思います。




それでは今日も:

     私達は横田めぐみさん達を取り戻さなければならない!!!





コメント (2)
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