何故清水の次郎長は、森の石松をわざわざ讃岐の金毘羅様に派遣したのか・・・・・皆様ご存知ですか!!!!!なぜお隣(?)の三島にあるお宮ではいけなかったのか?????もちろん讃岐の金毘羅様まで旅をしたから、有名な森の石松の『神田の生まれよ・・・・・(は、相手のセリフで、本人は三河か遠州のどちらか生まれらしいのですが)』のセリフが後世の人々を楽しませることになったのですが・・・・・・
住んでいる地にある産土のお社ではなく、江戸時代にはそこかしこにあっただろう近くの金毘羅様でもなく、遠い異郷の金毘羅様・・・・・・刀剣を奉納するにはうってつけと思われる尾張の熱田神宮も、中間点くらいにあります。次郎長にはどうしても讃岐の金毘羅様でなくてはならない理由があったはずだと思います。
これは、次郎長のアイデンティティの問題だと思います。私がずっと主張してきた『五色人』にかかわる次郎長の出自の問題だろうと信じています。そしてこれを、次回の『ヒラ』に関する記事の先触れにしたいと思います。